1951年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井出俊郎、田中澄江
撮影:玉井正夫
音楽:早坂文雄
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉村春子、杉葉子、風見章子、大泉滉

 結婚して5年、東京から大阪に越して3年、子供もなく平凡な毎日を繰り返す三千代は日々の単調さに息が詰まっていた。そんなとき東京から夫の姪の里子が家出をしたといって転がり込んできた。そんな居候の存在も今の三千代には夫との関係をさらに寒々とさせるものでしかなかった…
 林芙美子の原作を成瀬が淡々としたタッチで映像化。端々まで注意の行き届いたつくりで倦怠期の夫婦の心理をうまく描いた傑作。川端康成が監修という形でクレジットされているのも注目に値する。

 こういうのが本当にしゃれた映画というのだろう。静かに淡々と夫婦の間の心理の行き来を描くその描き方は芸術的ともいえる。登場する誰もが多くを語らない。言葉少なに、しかし的確に言葉を発する。しかしストレートな物言いではなく、婉曲に言葉を使い、しかしそれがいやらしくない。こういう台詞まわしの機微が味わえるのは古い日本映画ならではという感じがする。それはもちろん古きよき時代への郷愁であり(生きてないけど)、それによって現代の映画のせりふの使い方を貶めるものではないけれど、こういう空間をたまには味わいたいと思う。
 そしてその細かい気遣いはせりふ使いにとどまらない。小さなしぐさの一つ一つが納得させられる感じ。ひとつ非常に印象に残っているのは、終盤で三千代と初之輔が食堂に入り、話をする。話をしていると、画面の後ろで誰かが店に入ってくる。二人はそちらをふっと見遣る。そしてすぐに向き直る。その人はまったく物語とは関係ない人だから、別に振り返らなくてもいいし、そもそも入ってこなくてもいい。しかし、そこで人が入ってきて、そこに目をやる。この映画全体とは本当にまったく関係ないひとつの仕草はとても自然で、彼らの存在にぐっと現実感を与える気がする。
 本筋は語りすぎず、しかし気の利いた遊びも忘れない。こういうのが本当にしゃれたというか粋な映画なんだと思いました。こういう日本映画のよさというものを忘れていはいけないなと思いましたね。ふとセルジュ・ダネー(フランスの人ね)が溝口の『雨月物語』のワンシーンについて書いていたことを思い出しました。それは、「溝口は、その死が起こっても起こらなくてもよいことがわかるような、漠然とした運命として宮木の死をフィルムに収めたからである。」というものでした。ダネーの論点とはちょっとずれている気はしますが、そこに漠然としたひとつのイメージがわいてきます。日本流の「粋」のこころがなんとなくそこにある気がしました。

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