独立愚連隊
2005/10/12
1959年,日本,108分
- 監督
- 岡本喜八
- 脚本
- 岡本喜八
- 撮影
- 逢沢譲
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- 佐藤充
- 中谷一郎
- 中丸忠雄
- 雪村いづみ
- 中北千枝子
- 南道郎
- 上原美佐
- 三船敏郎
- 鶴田浩二
従軍記者の荒木は各部隊のはみ出し者ばかりが集まったという独立愚連隊を訪ねるために将軍廟にある大隊にやってくる。その大隊の隊長児玉大尉は精神を病み、副官の橋本中尉がその隊の指揮を取っていた。そして、その大隊にある慰安所たちばなの慰安婦トミは新聞記者の荒木と旧知の間らしいのだが…
太平洋戦争末期の北支を舞台にはみ出し者たちが活躍する、西部劇じみた戦争活劇。続編として『独立愚連隊西へ』も作られた。
「バカバカしいのは戦争だ」独立90小哨哨長石井軍曹が主人公の荒木/大久保に向かって吐くこの言葉、これはこの作品を、そして岡本喜八の映画の全てに通じる思想を端的に表現した言葉である。岡本喜八は繰り返し繰り返し戦争を描くとによって、それがいかに無意味でバカバカしいものであるかということを訴え続けた。初期作品(監督第5作)であり、初の戦争映画であり、また、初のオリジナル脚本作品であるこの作品ですでにそのような思想が明確にセリフとなって表れているというのは、彼がいかに戦争に対して明白な意識を持っていたのかということをあらわすものだろう。
この作品の主要な登場人物は3人である。主人公の荒木、大隊の副官橋本中尉、独立愚連隊の哨長石井軍曹。まず最初に出会うのは荒木と橋本である。この出会いからすでに二人は対照的な存在として描かれている。荒木は飄々としていてつかみ所のない男、橋本はぴりぴりとして狂気のかけらを感じさせる恐ろしい男である。とくに橋本が中国人を走らせてそれを狙い撃ちするというシーン(ふたりの出会いのシーン)の印象は強烈である。このシーンのまずの印象は戦争というものが一人の男をこのように狂わせることがあるということだ。それは戦争に翻弄されたものの悲劇、戦争に対して自分の独立を保つことができない弱い人間に訪れる悲劇である。
それに対して荒木は戦争に対して超然としているように見える。彼の行動は飄々としていて目的がわからない。それは物語の展開の中で徐々に明らかになって行くわけだが、最後まで見てみても、私にはどうも納得が行かなかった。彼には命を賭してまで行動し、あれほど冷静に振舞うことが出来る理由が私にはわからなかったのだ。
私は、ここには何か隠されたものがあると感じた。岡本喜八の作品には彼のように行動の目的や動機が今ひとつよくわからないという人物が必ずと言っていいほど登場する。何のために、あるいは何に駆られて行動しているのか、それがわからないがとにかく行動し、観客はそれを追って行くという人物である。それは、明確な目標に向かって行動しているようにはどうしても見えない存在、その行動の理由が明らかにならないような存在である。この作品ではこの荒木がそれに当たる。それはつまり、映画には現れてこない理由が彼にはあるということだ。
そしてその理由というのは私が思うに彼の戦争に対する考え方なのではないかと思う。彼が脱走兵になってまで戦争の当事者となることをやめたのはやはり「戦争がバカバカしいから」だからなのではないかと思うのだ。無意味な戦争に巻き込まれるよりは、弟のために行動する方がましだと考えたのだろう。つまり彼は戦争から逃げ出し、この無意味な戦争をやり過ごそうとしたわけである。
そして、戦争の無意味さを認識しているという意味では荒木と石井軍曹とは同じ思想を共有しているということも出来る。荒木は逃げ出すということでその思想を実践し、石井軍曹は「死なない」ということでそれを実践しようとしている。石井軍曹は逃げ出すことはせず、戦争のシステムの中でそれが通り過ぎるのを待っているのであり、戦争をやり過ごそうとしているという立ち方は共通している。
このように戦争をくだらないもの、無意味なものと捉えるのが、岡本喜八の一貫したスタイルだ。そのように無意味なものと認識したうえで、それにどう対処するのか、それが彼が問い続ける問いなのである。その点では、橋本中尉も荒木や石井軍曹とは正反対のように見えながら、同じなのかもしれない。戦争の末期、彼らは大義名分も、勝てる見込みも失って、ただ虚しさだけと向き合っていたのだ。