更新情報
上映中作品
もっと見る
データベース
 
現在の特集
サイト内検索
メルマガ登録・解除
 
関連商品
ベストセラー

ションベン・ライダー

2005/12/20
1983年,日本,118分

監督
相米慎二
原案
レナード・シュナイダー
脚本
西岡琢也
チエコ・シュナイダー
撮影
田村正毅
伊藤昭裕
音楽
星勝
出演
河合美智子
藤竜也
永瀬正敏
坂上忍
鈴木吉和
原日出子
伊武雅刀
ケーシー高峰
前田武彦
倍賞美津子
preview
 プールの時間、ガキ大将のデブナガにいじめられたジョジョ、辞書、ブルースの3人、今日こそやっつけてやろうとするが、そのデブナガが目の前でヤクザ風の男たちに誘拐されてしまう。警察の話から横浜の暴力団極龍会が関わっているらしいと知った3人はデブナガを見つけ出して仕返ししようと横浜へ向かい、そこで見事に極龍会のヤクザのひとり厳兵と知り合うが…
 相米慎二が独特のスタイルで少年少女という得意のモチーフを撮った不思議な味わいの作品。デビュー作となった河合美智子、永瀬正敏のフレッシュな魅力が見ていて楽しい。
review

 映画は長い長い1カットで始まる。これぞ相米慎二!といいたくなるようなショットである。そしてこの映画には重要な場面では必ず長い1カットのシーンが使われる。果たしてこれは何を意味しているのだろう。別に映画作家としての技量を誇示したいがためにやっているわけではないだろう。映画的な必然性がなければ、俳優に過剰な負担をかけ、しかも編集によって時間や視点をコントロールすることができないこのような方法を採用するわけはないのだ。相米慎二がこれらのシーンを長回しで撮る映画的必然性とはいったい何なのか。
 私が冒頭のシーンを見て思ったのは、これがまぎれもなく映画だということだ。それはどういうことかといえば、これから始まるこの映画はわれわれをスクリーンの向こう側に連れて行って、そこで起きる出来事に巻き込んでいくものではないということであり、それはつまりわれわれ観客はあくまでスクリーンのこちら側にとどまって、スクリーン上で展開される物語に目を凝らすしかないということだ。それは当たり前のことのように思えるが、映画にとって当然のこととは逆に、視線のマジックによってわれわれがまるでスクリーンの向こう側の出来事に参加しているかのような気持ちにさせることなのだ。
 この映画は、そのようにしてわれわれがスクリーンをまたいでいくことを拒否する。スペクタクルに参加して、主人公たちと一緒に冒険に出発するチャンスすら与えられないのだ。われわれは傍観者としてスクリーンを眺めるしかない。
 それにもかかわらず、この映画の主人公たちに親近感を覚えるのは、彼らがわれわれに向けて話しかけてくるからだ。それを特徴的に示すのは、映画の途中に何度も挿入されるふざけたようなインタータイトルだ。少女漫画かコバルト文庫かという感じの口調で語られるそのインタータイトルの存在が、この映画の出し物的な雰囲気を強調する。このスクリーン上の出来事は見ている私に向けて演じられているものなのだという印象を強くするのだ。あるいは、友達が夏休みにあった出来事を語っていると捉えてもいいのかもしれないが、ともかく私はその現場にはおらず、終わったあとにその話を聞かされていると感じるのだ。

 そのように語られるから、この映画はすごくノスタルジックな青春の香りがする。映画が作られてから20年の歳月が過ぎたからではなく、この映画はそもそもノスタルジックな青春映画として作られたのだと思う。つまり、主人公たちと同年代の子供たちに向けられた物語ではなく、すでに大人になってしまった人たちへ向けた青春映画なのだ。
 そういう映画を作る場合には普通は舞台を過去に持ってくるものだが、この映画はそうしていない。しかし、これが現在であるということもことさらには言っていない。そのことによってあらゆる時代のあらゆる世代にとって青春映画としてみることができる(さすがに明治・大正に青春時代を送ったひとは無理だろうが)。言い換えるならば、この映画が紡いでいるのは偏在的な物語なのである。「偏在的」というのは、「普遍的」というのがどこにでもある、あるいはどこにでもありうるという意味であるのに対し、どこかにある、あるいはそこにあるかもしれないという意味で使っている。つまり、この映画は、よく考えたらありそうもないことなのに、映画を観ているとそんなことがあったかもしれないと感じてしまうということだ。あるいは、少なくともそんなことがありえるかもしれないと思ってしまうのだ。
 そのような偏在性を象徴するように実質的な主人公となるヤクザの名前は厳兵(ななしのごんべえ)と名づけられている。
 そして、ノスタルジックな青春という意味では、主人公のブルースのキャラクターが非常に重要になる。自分が男の子だと主張する少女、彼女は女になりたくない。おそらく男にもなりたくない。男の子でいたいのだ。だから、初潮を迎えたことにショックを受けてしまう。この少女が映画の中心にいることでこの映画全体の雰囲気があいまいな、あるいは絶妙な中間的な感じになっているともいえるのだ。そしてそれはやはり偏在性につながるのである。相米慎二の映画の魅力は言葉にしがたいそのような雰囲気を生み出すそのさりげなさにあるのかもしれない。

 そして、もうひとつの重要な長い長い1カットのシーン、相米慎二の映画群の中でも指折りの有名なシーンである木場でのアクションシーンも非常に印象的だ。水に落ちたり上がってきたり、追いかけたり、追いかけられたり、7人もの登場人物が水の上に浮いた材木の上で繰り広げるアクションが1カットで撮られているのだから、それはものすごいことだ。そして、ここにも観客をうならせるという以上の目的があるに違いない。
 おそらくこのシーンが1カットであることであるのは、それによってスリルが生まれるからだろう。普通に考えれば、落ちる瞬間の表情のクロースアップや追いかける者の手が追いかけられる者に届きそうになる瞬間などを見せたほうがスリルが生まれそうなのだが、必ずしもそうではないということをこの映画は論証してみせる。この映画はずっと引きの画で撮られているにもかかわらず非常にスリリングだ。このシーンを見ながら思い出したのは、バスター・キートンのアクション、特に『セブン・チャンス』だ。バスター・キートンといえばもちろん1920年代から30年代に活躍した喜劇王だが、飛んだり跳ねたりモノが降ってきたりというシーンを1カットで撮って笑いを誘った。
 それをこのシーンが思い出させるということは、このシーンも緊張感と笑いの狭間にあるということである。スリリングであるだけにそこから笑いが生まれる。緊張の糸がぷつりと切れた瞬間こそ爆発的な笑いが生まれる瞬間だからだ。この映画がジャンルとしてはコメディではないにもかかわらず、どうも全体的についつい笑いが漏れる感じの映画なのは、そのような緊張感とそのゆるみがうまく使われているからなのだろう。

 そのような青春の甘酸っぱい雰囲気と、緊張感とそのゆるみがもたらす笑いと、それた対極にあるはずのヤクザのこれまた微妙なキャラクターが不思議な魅力を生み出す、なんとも不思議な映画なのだ。

Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: 日本60~80年代

ホーム | このサイトについて | 原稿依頼 | 広告掲載 | お問い合わせ