魚影の群れ
2006/1/30
1983年,日本,135分
- 監督
- 相米慎二
- 原作
- 吉村昭
- 脚本
- 田中陽造
- 撮影
- 長沼六男
- 音楽
- 三枝成章
- 出演
- 緒形拳
- 夏目雅子
- 佐藤浩市
- 十朱幸代
- 矢崎滋
- 三遊亭円楽
青森県の大間でマグロ漁師をする小浜房次郎の娘のトキ子は近くの町で喫茶店をしている依田俊一と恋に落ち、俊一はトキ子と結婚するためマグロ漁師になることを決意する。トキ子は房次郎にそのことを告げるが、頑固な房次郎はそれを拒否し、勝手に俊一の喫茶店に出かけて行って俊一にそのことを伝える。しかし、俊一はあきらめず大間にアパートを借り、毎朝房次郎の船・第三登喜丸の前で待つのだった…
吉村昭の同名小説の映画化。荒々しい海の男の生活の生々しさが伝わってくるような肉感的なフィルム。
相米慎二といえば長回しの1シーン1カットという印象がついて回る。確かにこの作品も長い1カットのシーンがかなり出てくる。しかし、原作モノの文芸作品であるせいもあってか85年の『雪の断章 情熱』はもちろんのこと、同年に撮られた『ションベン・ライダー』と比べても、作家性が突出しているという感じはしない。長回しのシーンがそれ自体として主張するよりは、骨太の物語に緊張感をもたらす効果的な技法としてうまく映画の中に埋め込まれているという印象だ。
たとえば、房次郎が俊一の喫茶店を訪ねるシーン、このシーンは室内という空間で展開されるので、1カットで撮られることに違和感はないわけだが、それでも数分のシーンが1カットで展開されることによってそこには緊張感が備わるような気がする。それは俊一の緊張と引き伸ばされた時間感覚を観客にも味あわせようとしているかのようなのである。
そして、マグロを捕えようとするシーンの緊張感も1カットであることによって演出されている。この映画ではマグロを捕まえようとするシーンが3回繰り返されるわけだが、そのどれもが長い1カットを含んでいる(と記憶している)。まず1度目のシーンでは、マグロを引き寄せ、船につなぐまでが1カットで撮られている。そこに至るまでは船の状況や陸の状況を短くつないでいるのだが、マグロを引き寄せる段になるとカメラは房次郎とマグロを横から捉える形で長いカットになる。このカットから生み出されるのは漁師の緊張と興奮である。1カットで捉えながらも、マグロに鈎針を打ち下ろす瞬間をはっきりと捉える。緒形拳がこれをすべて1カットでやり遂げたという役者としてのすごさにも感動するが、まずこのマグロ漁師の生き様というか、真剣さに心打たれるのだ。
これに対して2度目のシーンでは、マグロとの戦いは一貫してロングショットで捉えられる。そして房次郎はマグロを取り逃がしてしまうのだ。このカットにも1度目のシーンと同様に緊張感が漂うが、1度目と2度目とではその緊張感に何か違いがあるような気がする。それもたらすのはカメラの距離であるわけだが、それはすなわち視座の違いである。
この視座の違いはこの映画にとって非常に重要な問題であるのだ。なぜなら、1度目の房次郎とマグロを横から捉える視座では、カメラの位置にいるわれわれ観客はつまり船に同上しているという視線で房次郎の格闘を眺めることになるが、2度目のロングショットで捉える視座では、われわれ観客は別の船に乗っているか、あるいは海の中にいるかということになるからである。そしてこのカットには水に潜るという瞬間がある(厳密に言えばここで微妙にカットが切り替わっているので1カットではないのだが、映画の意図としては1カットとして作りたかったということだろう)。この瞬間が意味するのはわれわれがマグロであるということではないだろうか。われわれはマグロの視線で房次郎とマグロの格闘を見せられているということになるのではないだろうか。
そして、なぜそのように思うかといえば、そのシーンの直前に房次郎は別れた妻に「マグロと人間の区別がつかない」と愚弄されているからだ。マグロの視点から房次郎を眺めることで、その言葉が事実であることをわれわれは確認してしまう。そして房次郎もそれが事実であることを突きつけられるのだ。だから房次郎は自信を失い、漁に出られなくなってしまう。ここで房次郎はマグロ一筋でやってきた自分の人生に欠けていたものに気づいてしまうのだ。
この映画は、緒形拳に本当にマグロを釣らせて撮ったものだろう。そうでなければごまかしの効かない1カットでマグロを捉えるところを見せることはできないはずだから。そのようにしてまでリアルなマグロ釣りを撮るからには、そのマグロ釣りという行為に何らかのポジティヴな価値や意味や美を見出しているのだろうと推測することができるわけだが、この映画にはそのような価値判断は出てこない。
この映画がなぜマグロ釣りの映画なのかといえば、マグロ釣りという行為が生死をかけた行為であるからだ。相米慎二の作品は常に生死をかけた行為が問題になる。一瞬にして生から死へと転がり落ちる可能性のあるところで生きる人々、そのような人々を彼は捉えようとする。そしてそのような人々は自分に欠けた何かを狂おしく求めるがゆえに生死をかけて生きて行かざるを得ないのである。
そして房次郎に欠けているのは「人間」である。彼は人間を求めるが、それをマグロで埋めようとしている。そして自分ではそれに気づいていない。しかもその空白を埋めようという欲望は決して実現してはならない。欲望はその対象を手に入れてしまったら消失してしまうものである。房次郎が欲望を持ち続けるには、その空白を埋めるわけにはいかないのだ。だから、実際のところ彼はそのような「人間」を手に入れるわけには行かないのだ。
映画の最初ではトキ子がその空白を不完全な形で埋めている。そしてトキ子はその重荷を他に移すべく俊一が漁師になることを求める。しかし房次郎はそのトキ子の欲望を拒否し、俊一を拒否する。トキ子は房次郎の欲望を正しく理解していなかったのだ。俊一が怪我をしたのは事故のように見えるが、実は房次郎の無意識的な行為の結果とも考えられるかもしれない。
しかし前妻の言葉と、マグロを逃がしてしまったことによって彼は気づく。そして彼は、自分の欲望を誰かに仮託することで空白を埋めるということを考えるようになる。彼がこの映画の最後で俊一を救ってマグロをあきらめようとしたときに考えていたのは、俊一に自分の欲望を仮託することではなかったのか。それはつまり、自分に代わって生死をかけてマグロを追い求める者を見出したということだ。それによって房次郎は自分の欲望を維持したまま空白を埋めることができたのだ。
しかし、それゆえに、俊一が自分の命をも危険にさらしてもマグロをあきらめないということは予想できる当然のことである。房次郎はその俊一の求めを拒否することはできない。そして、俊一が死ぬことで房次郎は再び空白を抱え、マグロ漁を続けることになるわけだが、今度はその可能性を孫に求めることになるのだ。
物語の上で、俊一が死ぬことを選択したというのは非常に過酷なことかもしれない。俊一が死ななければ、俊一はマグロ漁師となり、孫が生まれ、今度はトキ子が家を出る。そのような繰り返しが起きると予想することができるのだが、俊一の死によって房次郎は孫に自分の欲望を難くせざるを得なくなった。俊一の「子供が男の子だったら漁師に」という言葉にはそのような意味が含まれている。それは誰にとっても過酷な結末だ。