昨日消えた男
2006/2/17
1941年,日本,89分
- 監督
- マキノ正博
- 原案
- ダシール・ハメット
- 脚本
- 小国英雄
- 撮影
- 伊藤武夫
- 音楽
- 鈴木静一
- 出演
- 長谷川一夫
- 山田五十鈴
- 徳川夢声
- 高峰秀子
- 江川宇礼雄
- 進藤英太郎
とある長屋に住む芸者の小富は隣に住む文吉に惚れている。同じ長屋に住む初老の浪人篠崎の元に大家の勘兵衛が借金の取立てに来て、払わなければ娘をもらって行くと脅し、文吉はその勘兵衛を殺してやると息巻いた。その夜、金策に走った篠崎は血の染みをつけて帰宅、勘兵衛の死体が見つかる…
マキノ正博が小国英雄の脚本で撮ったサスペンス時代劇の名作。マキノと小国と長谷川一夫による「男もの」のひとつでもある。
予備知識がなければ、長谷川一夫演ずる文吉の正体はわからず、まさに推理小説のおもしろさを楽しむことが出来る。途中で第2の殺人が起きるというのもいかにもサスペンスらしいものである。それもそのはず、この作品は正月映画として作るはずだった長谷川一夫と古川ロッパ主演の『家光と彦左』がロッパの病気により実現不可能になり、急遽、長谷川一夫主演で別の作品を作らなければならないとなって、マキノと脚本の小国英雄が宿にカンズメになっていたときに、小国が「英国の本を読んでたら、こんなん出来たぞ」といって出してきた脚本らしい。その本がなんなのかはわからないが、おそらくアガサ・クリスティ的なミステリだったのではないか。小国はそのトリックを頂いて、舞台を江戸時代の長屋に移し、うまい具合に捕り物に仕上げた。しかも、脚本が出来た時点で撮影にさける日数はわずか10日しか残されていなかったというのだ。まさに、早撮りのマキノのお役ごめんという感じである。
だからと言って、いい加減な作品になるかといえば、もちろんそんなことはない。マキノについていろいろなものを呼んでいると、10日で撮ったなんていうのはざらで、『鴛鴦歌合戦』で7日、『江戸の花和尚』にいたっては撮影時間わずか28時間だったという。だから、早撮りだからといって作品の質に劣るということはないのがマキノなのである。
そしてその通り、この作品は素晴らしい作品になっている。なんと言っても小国英雄の脚本が素晴らしい。複数の人間の思惑が複雑に絡み合い、本当に誰が犯人かわからない話、主役の長谷川一夫や山田五十鈴が犯人ではないことはわかっているが、長屋に住んでいる誰がいったい犯人なのか、そして長谷川一夫演じる文吉とはいったい何者なのか。この興味だけで観客はぐんぐんと映画に引き込まれてしまう。そして、それにマキノのいつもどおりのスピード感溢れる演出がかぶさる。それだけで観客は簡単にコントロールされてしまうのだ。
そして、この作品ではもうひとつ、マキノの演出が冴えを見せるポイントがある。それは、マキノのサスペンス作家としての素晴らしさを示すもので、肝心のものをうまく見せながら隠すという撮り方である。一番わかりやすい例は、与力の取調べを受けて源左衛門が刀を検められようとしたとき、外で騒ぎが起こり、戻ってきて取調べを再開すると、源左衛門の刀には血油がついておらず、代わりに横山の刀に血油がついているのだ。このシーン、隠されて入るが刀がすりかえられたのはわかる。しかしそれは横山がやったのか、文吉がやったのかわからない。そして、横山がやったとしたら、彼はどのような意図でそうしたのかがわからないのだ。
その隠し方が、本当に見事にサスペンス映画の型にはまり、物語の展開をスリリングにして行くのだ。見ていると、これが時代劇であることを忘れてしまう。舞台が江戸時代で、ちょんまげを結っていようと、関係ない。それはただの舞台装置であって、サスペンス映画であるという本質は変わらないのだ。マキノ雅広は時代劇の天才と言われているけれど、彼は京都の撮影所で時代劇をとって育ってきたために時代劇を撮るのが得意だったというだけであって、彼の天才は本当はこのサスペンスの撮り方にあるのだと私は思う。サスペンスに理想的なスピード感と見せ方、それを身につけたマキノ雅広は、じつは舞台が江戸時代だろうと、現代だろうと、ベイカーストリートだろうと、かまわずおもしろい作品を撮ったに違いないのだ。もしマキノ正博がハリウッドに呼ばれてフィリップ・マーロウの映画を撮ったとしてもきっと彼はおもしろい作品を作っただろう。この作品はそう思わせるほどに見事な切れ味を見せているのだ。
ロッパ一座の渡辺篤とサトウ・ロクローの「なるほどね~」「その通り」というやり取りのくり返しもおもしろい。マキノの作品で笑いの部分にはこの“くり返し”という手法がとられることが多い。くり返しは笑いの基本、この作品の翌年、続編ではないがシリーズ的な作品として撮られた『待って居た男』でエノケンが「いろいろおしえてくれてありがとう」と繰り返し言っていたのも、おもしろかった。