ある子供
2006/6/15
L'Enfan
2005年,ベルギー=フランス,95分
- 監督
- ジャン=ピエール・ダルデンヌ
- リュック・ダルデンヌ
- 脚本
- ジャン=ピエール・ダルデンヌ
- リュック・ダルデンヌ
- 撮影
- アラン・マルコァン
- 出演
- ジェレミー・レニエ
- デボラ・フランソワ
- ジェレミー・スガール
- ファブリツィオ・ロンジョーネ
- オリヴィエ・グルメ
少年と組んでこそ泥をして暮らすブリュノは、恋人のソニアに子供が生まれるが、簡易宿泊所に暮らすその日暮らしを続けていた。ブリュノはソニアのことは好きだが、子供にはまったく興味を持たず、子供を売るという計画を思いつく…
『息子のまなざし』のダルデンヌ兄弟が2度目のカンヌ映画祭パルム・ドールに輝いた社会派ドラマ。骨太のシナリオと演出は見ごたえ十分。
この映画の題名の『ある子供』、その子供はもちろんブリュノとそにアの間に生まれた子供“ジミー”である。それが「ある」とされているところにブリュノの子供に対する無関心、自分の子供であるにもかかわらず簡単に売り飛ばしてしまうことができる匿名性が秘められているのだ。
と、最初は思うし、物語は確かにそのように始まる。しかし、物語が中盤に差し掛かると、その“子供”とは実はむしろブリュノのことであるとわかってくる。ブリュノは20歳という設定だが、どう考えても子供である。ソニアとの行動はまったく子供じみているし、子供を売りさばくべく連絡を待っているときのブリュノは、運動靴を泥につけ、壁のなるべく高いところに足跡をつけるという子供らしい遊びを繰り返している。そして彼の仕事の相棒も子供である。相棒のスティーヴたちはおそらく中学生くらい、彼らに泥棒を実行させ、その品をブリュノが捌く、それまた子供が出来心でやるような犯罪に毛の生えたようなものだ。
その「子供」であるブリュノの痛ましさ、それが中盤からのこのドラマの中心になってくる。子供であるブリュノが子供を持ってしまったこと、それには様々な結果が伴うわけだが、ブリュノが感じるのは、面倒くさいということとその子供にソニアの愛情を奪われたということだ。弟や妹が出来たときの子供のようにブリュノは自分にかまってくれと主張する。今までのように2人で楽しくやろうとソニアにうったえる。しかしソニアは子供を持ったことで大人になり、ブリュノを相手にしない。そのためにブリュノは子供がいなくなればいいと考えてしまう。そのような子供じみた単純な構造がそこにはあり、そのように単純だからこそ根が深い。
ブリュノは子供を取り戻そうとするが、それは父性に目覚めたからではない。ただソニアに嫌われ捨てられるのがいやだからだ。ここでもまだブリュノは大人にならず、子供を売買する組織に目をつけられてもそれを深刻には受け止めない。
しかし、そのブリュノも“仲間”であるスティーヴの危機には正義感を持って対処する。しかしそれは彼が大人になったということなのか、それとも子供らしい正義感の表れなのか、私は彼は少しだけだけれど大人になったのだと感じたが、受け取りようは見る人によって、その人がどれくらい子供でどれくらい大人であるのかによって違うだろう。
この映画は決して大人になれない大人を非難している映画ではない。確かに大人になれない大人が引き起こす問題を題材にして入るが、それは誰もが持っている子供の面をある一点において極端に拡大したものであるのだろう。確かにブリュノのように子供なのは問題だが、彼があのまま大人になっても社会は彼を受け入れるだろうか。大人になれない大人というのは個人の問題ではなく、個人と社会の関係の中から生まれる問題なのだ。大人たちは自分の子供的な部分に目をつぶって大人になれない大人たちを批判する。しかし、誰に彼らを批判する資格があるのか。
大人になるというのは難しい…