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鶴八鶴次郎

★★★★星

2006/9/20
1938年,日本,89分

監督
成瀬巳喜男
原作
川口松太郎
脚本
成瀬巳喜男
撮影
伊藤武夫
音楽
飯田信夫
出演
長谷川一夫
山田五十鈴
藤原釜足
三島雅夫
大川平八郎
椿澄枝
清川玉枝
preview
 新内の鶴八鶴次郎は、亡き師匠の娘鶴八と一番弟子の鶴次郎のコンビで若いながらも名をあげて、名人会に呼ばれるほどになった。しかし、鶴八と鶴次郎はことあるごとに喧嘩してばかり、お互いに惹かれているようなのに、芸となると意見が対立してばかりいた。しかし名人会が終わってのんびりと温泉場に出かけると、ふたりもゆったりとして打ち解ける…
  川口松太郎の原作を成瀬巳喜男が脚本・演出した作品。いわゆる“芸道もの”のひとつで、長谷川一夫と山田五十鈴の競演が若々しくすがすがしい。
review

 この作品は成瀬の作品群の中でも“芸道もの”といわれる作品のひとつだ。何が“芸道もの”なのか明確に定義するものはないが、とにかく芸人の生涯とか生活を描いた作品を“芸道もの”といい、主に戦前から戦中にかけて成瀬はこのジャンルに属するとされる作品をかなりの数撮っている。この『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』あたりが典型的な“芸道もの”とされている。そしてこの3作品の全てに出演しているのが山田五十鈴である。
  成瀬の作品史を見てみると、この“芸道もの”の以前に撮った作品にはコメディを含め軽妙な作品が多く、戦後にはいわゆる“女性映画”が多い。戦中に戦時統制下に少し毛色の変わった映画を撮った以外は、大体その3つの傾向に大別できるようだ。成瀬は今となっては「女性映画の巨匠」といわれるが、そうなる前には違う時代もあったということだ。しかし、それでも彼が「女性映画の巨匠」と言われるのは、戦前戦中の時代にも女性映画的な要素が映画に込められていたからだ。戦後の映画に通底する要素として表れるのは、たとえば意志の強い女性であり、たとえば情けない男性である。家父長的な制度の中でも芯が強く男性をも引っ張って行くような女性、あるいは女に頭の上がらない情けない男性、そのような人物が物語の中心にぽんと置かれているのだ。
  典型的な芸道ものとされる三作品の全てで成瀬が山田五十鈴を起用したのは、彼女が時代劇にふさわしい美貌と芯の強さを感じさせる風貌を持っているためではないか。それによって成瀬は芸道を描いた作品の中にも何か女性映画的なものを込めようとしたのではないだろうか。振り返りながらきっと睨む山田五十鈴の目には女性の強さというものが感じられるのだ。

 この作品も少しズレはあるが、その例外ではない。まず、長谷川一夫演じる鶴次郎はわがままなキャラクターであり、同時に情けない人物でもある。この時代を象徴するような家父長的な人物で、恩を受けた師匠の娘であり、自分が愛する女であり、三味線の名人である鶴八を自分に服従させようとする。そして、鶴八は意見が対立すると自分の意見を通そうとして喧嘩をする。鶴次郎は鶴八が母親である師匠のコピーであることを求め、男に従う従順な女であることを求める。これは実は彼の虚勢であり、自信のなさの表れに過ぎない。ふたりが衝突するのは、ことごとく鶴八が彼女なりのやり方を追求していこうとするときであり、それは彼女の創造性、芸人としての器の大きさを表しているわけで、逆にそれに反対する鶴次郎は型にはまったことしか出来ない職人的な芸人でしかないことを暗に示している。
  そして、鶴次郎自身はそのことに気づいているが、それを認めようとはせず、鶴八が自分よりも優れていることが明らかになることを恐れ、鶴八を貶めようとする。そして、彼が認めようとしないそのことは、彼がひとりになるとともに落ちぶれて行くことによって証明されてしまう。周囲はそれを人気というものの儚さ、頼りなさというもののせいにしているが、どう考えても原因は彼が鶴八を失ったためだ。彼は鶴八の鶴次郎の芸をいかそうという努力によって自分が輝いていたということに気づかない。それに気づかないがゆえに、自分の芸を磨くことで這い上がっていこうとせず、ひたすら落ちて行くだけなのである。
  こんな情けない男鶴次郎を支え続ける鶴八は芯が強い女性である。男性を支えるという意味では家父長的な制度の中に生きてはいるが、自分を曲げる事はなく、自分の意見はずばりという。そこに成瀬が戦後に盛んに描くことになる自立した女性像の萌芽を見る。
  そして、この対比は結末のところでさらに明らかになり、劇的な効果を生む。鶴八は夫と別れても芸の道を追求したいといい、夫にそれを飲ませられるということにまったく疑いがない。それに対して鶴次郎は、わざと喧嘩をふっかけて鶴八が芸の道に戻ることをやめさせようとする。そして、それは不安定な芸の道に戻ることをやめさせるための思いやりなのだというようなことをいう。
  こんな笑止千万な終わり方があるだろうか。ここに働いているのはまず、鶴次郎の「鶴八のため」という心理である。これはいまだに鶴次郎が自分は鶴八の保護者であると考えていることを示している。鶴次郎にしてみれば、鶴八は女だから自分が彼女のことを考えてやらなければならないと思っているわけだ。それで格好よく彼女に身を引かせたと。そしてその背後にあるのは女は芸人なんかになるよりも人の女房として一生を平凡に暮らした方がいいんだという観念がある。だから自分が犠牲になって鶴八を幸せにするのだと彼は考えている。
  しかし、もちろんそれは誤謬だ。彼は結局自分は鶴八には勝つことが出来ないと気づき、鶴八を遠ざけたのだ。自分が鶴八という看板の陰に隠れることを怖れて。鶴次郎はこの後も決して名人と呼ばれる芸人になる事はないだろう。鶴次郎は自分の狭量な虚栄心のせいで自分自身を不幸にし、同時に鶴八をも不幸にしてしまった。しかもそれに気づかず、自分の虚栄心にも気づいていないのだ。なんと情けない男、そしてなんと素晴らしい終わり方だろうか。

 もしこれがハリウッド映画だったら、鶴八と鶴次郎は結ばれて、鶴八鶴次郎は名人として人気を博して目出度し目出度しとなるところだ。こんな脳天気な結末と比べて見れば、この作品の結末がいかに素晴らしく、そこでリアリティに溢れているかがよくわかる。複雑な人間をリアルに描くこと、これが成瀬が一貫してやってきたことであり、その手段として用いるのが単純化された家父長制モデルに疑問を投げかけることなのだ。戦後になっていわゆる「女性映画」を撮ることによってそのテーマが先鋭化してくるわけだが、その以前から、あるいはその以前にこそ、それが先進的であり、刺激的であった。この作品でも“芸道もの”の衣の下ではそのような革新性とリアリティが脈打っているのだ。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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