ストーリーテリング
2006/9/23
Storytelling
2001年,アメリカ,87分
- 監督
- トッド・ソロンズ
- 脚本
- トッド・ソロンズ
- 撮影
- フレデリック・エルムズ
- 音楽
- ベル・アンド・セバスチャン
- ネイサン・ラーソン
- 出演
- セルマ・ブレア
- レオ・フィッツパトリック
- ロバート・ウィズダム
- ジョン・グッドマン
- ポール・ジアマッティ
- マーク・ウェバー
『ハピネス』のトッド・ソロンズ監督がニュージャージーを舞台に撮った「フィクション」と「ノンフィクション」という2つの物語を組み合わせた作品。
「フィクション」は大学生のヴァイを主人公にし、彼女の恋人である脳性小児マヒのマーカスと文学の教授であるスコットをめぐる物語。「ノンフィクション」はドキュメンタリー映画を作ろうとするトビーとその映画の主人公として目をつけられた高校生のスクービーをめぐる物語。
「フィクション」のほうは差別にまつわる物語である。脳性小児マヒつまり身障者と黒人という差別される人々が登場し、主人公のヴァイはそのどちらも差別しないようにという意識を強く持つ。しかし、その意識というのは何を意味するのか。黒人教授のスコットはそのことを明確な言葉にし、それはうなずけるのだが、全体の印象としては曖昧模糊としている。もちろん差別とは観念だから、明確に意識化することなど不可能で、だからこそトッド・ソロンズはそれを描こうとしたのだろう。
この主人公のヴァイは差別を否定し、自分が差別的ではないことを誇りに思っている。あるいは自分が差別的ではないことを示すためにマーカスと付き合う。それは何を意味するのか、それは結局は彼女が差別主義者であるということを意味するのか、彼女は自分自身ではそのことに気づいていないだけなのか。
それに対してマーカスやスコット教授は差別を逆に利用している。自分が差別される存在であるということを利用して自分の立場を持ち上げようとするのだ。
個々のあるのは全てがエゴのぶつかり合いである。誰もが自分自身のために行動している。差別をしないというモーションも、差別されているというモーションも全てはエゴなのだ。誰も本当に他人のことを考えてはいない。ゼミに集まる学生たちは自分の思ったことを口にするのではなく、理想的な答えだろうと考える答えを口にする。その光景は悲惨である。
「ノンフィクション」のほうはポール・ジアマッティ演じる映画作家の情けなさがすごい。彼は無気力な高校生スクービーを自分の映画の主人公とするわけだが、それは結局彼らの間に共通点が多いからなのではないかと思う。「全ての小説は私小説である」という言葉もあるが、全てのドキュメンタリー映画は製作者自身の内面の吐露であると私は思う。自分の欲望をスクリーンの中の主人公に投影し、それを実現しようとするのである。
この2人の共通点は「有名になりたい」という欲望である。オクスマンはえらそうなことを言っておきながら結局観客の反応が一番気になるし、スクービーは何もしていないのに「有名になりたい」とだけいう。オクスマンは最初俳優の道を目指していたようだし、彼もとにかく有名になりたいのだろう。
しかし彼らの欲望はただただ空回りする。欲望の充足とはその対象の周りをまわり続けることだというのがラカン的な考え方だったと思うが、彼らはその欲望の対象をながめながらただそん辺りをそぞろ歩きしているだけに過ぎない。スクービーにいくら不幸が降りかかっても同情を感じないのは彼がそんな人間だからだ。
しかし、彼のうつろな目は非常に印象に残る。彼は自分の欲望の対象が非現実的だといわれることを知っている。しかし自分は特別な存在だと思っているから、実現できるかもしれないとも思っている。そんな彼のうつろな目は誰もが持つ「自分は特別だ」という意識を強烈に突く。「自分は特別だ」と思っているだけで実際には何もしない人たち、その空虚さを彼は象徴しているのだ。
トッド・ソロンズの映画は辛辣でもあるが、同時にその脱力感は心地いい。この作品ではベル・アンド・セバスチャンが音楽を担当しその脱力感をさらに心地よいものにしている。