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秀子の車掌さん

★★★.5星

2006/10/15
1941年,日本,54分

監督
成瀬巳喜男
原作
井伏鱒二
脚本
成瀬巳喜男
撮影
東健
音楽
飯田信夫
出演
高峰秀子
藤原鶏太
夏川大二郎
清川玉枝
preview
 田舎のバス会社のおんぼろバスで車掌を勤めるおこまさん、競合する他社のバスに比べると揺れも激しくスピードも遅くて、お客といえば荷物を山ほど持ったり鶏を連れた人たちくらい。そんなある日、ラジオで観光バスのガイドの口上を聞いたおこまさんは自分でもやってみようと思い立つが…
  成瀬巳喜男が子役の高峰秀子に目をつけ、戦争中に撮った軽妙なコメディ。成瀬と高峰秀子が初めてコンビを組んだ記念碑的作品。
review

 明るく楽しく朗らかに。そんな言葉がピタリと来る車掌さんのおこまさん。バスの車掌さん、あるいはバスガールはバスがワンマンになる昭和30年代まで働く女性の象徴的な存在だった。今となってはバスガールならぬバスガイドが観光バスに乗り込んでいるだけだが、昔はその辺を走る路線バスにもバスガールが乗っていて、次の停留所を案内したり切符を切ったりしていた。そのように生活に密着した存在だからもちろん映画にも数多く登場する。ほとんどの場合は当たり前すぎて特に注目されないが、そのバスガールが主人公になる映画というのも結構あり、今ではノスタルジーの対象となって人気があったりする。たとえば『歌え!青春はりきり娘』では美空ひばりが東京のバスガールを演じ、『こだまは呼んでいる』では雪村いづみが、『雲がちぎれる時』では倍賞千恵子が田舎のバスの車掌(バスガールというよりは車掌)を演じている。彼女たちに共通するのは、もちろん彼女たちが女優でもあり歌手でもあるということだ。バスガールは声を出す職業、だからそれを演じる役者も歌手の方がいいし、あるいは役者としても活躍する歌手を主役とする映画の題材としてバスガールが選ばれやすいのかもしれない。その証拠に『私と私』ではザ・ピーナッツがバスガールを演じている。
  高峰秀子は歌手ではないが、人気子役から人気女優へと変身し、“デコちゃん”という愛称で人気を博した今で言えばアイドルのような存在。戦場に行った独身の兵隊がもって行ったブロマイドで一番多かったのが高峰秀子のものだったという話もあるくらいだから、その人気は絶大だったのだろう。だから、その高峰秀子がバスの車掌を演じるというのは実は自然なことだったのだろうと思う。戦火も激しくなってきた1941年、その戦禍の及ばない田舎を舞台にして明るく朗らかなバスの車掌の活躍を描く。それが国民にどれだけ明るさを与えたことか。それは想像に難くない。そしてまたこのおこまさんはぼろいバスとやる気のない会社で働いているにもかかわらず、一生懸命仕事をし、文句ひとつ言わない。そのけなげな姿勢は天皇の下に一丸となって戦う日本人の理想の姿のひとつとして権力側にも奨励されただろう。
  成瀬は基本的に体制順応型の人間ではないし、戦前から女性映画を撮ってきたこともあって、軍国主義という思想に与する事は難しかった。だから、戦中は苦悩し、“芸道もの”を中心とする日本の伝統を描いた映画や庶民的なホームコメディを多く撮った。戦争終結直前には大陸に渡り『上海の月』を撮ったり、『勝利の日まで』といういかにもな国策映画を撮ったが、それまでは何とか頑張っていたのである。
  この『秀子の車掌さん』はそんな成瀬が撮った庶民的なホームコメディのひとつである。だから、この作品には当時の庶民の生活をうかがわせる様々な要素が出てくる。バスや車掌はもちろんその中心的な要素である(今はほとんど見かけないボンネットバス)が、おこまさんが下宿している家が荒物屋であったり、靴がぼろぼろになってしまったおこまさんが実家によって下駄をはいて戻ってきたり、といったエピソードからも垣間見える。荒物屋などは今ではほとんど見かけない(金物屋が荒物屋的な店としてわずかに残っているが)し、バス会社の社長が氷にラムネをかけて飲んでいるのなども面白い。ラムネや下駄は最近、復権を遂げ、よく見るようになったという気もするが、それはある種のノスタルジーの発露としての昭和の復権であり、この映画のようなノスタルジーを掻き立てる映画が見直され、それがまたノスタルジーを強化するという側面も持つ。

 私がこの映画を見て思うのは、これがとことんまでにノスタルジーをかきたてる映画であるということだ。内容としてははっきり言ってたいした内容ではない。つぶれそうな田舎のバス会社の運転手と車掌が何とかお客を予防と知恵を絞ってたまたま知り合った小説家に観光案内を書いてもらうというだけの話。確かに、バスの車掌という職業婦人の象徴を主役にしたというのが成瀬らしい(戦時下にあってもそのようなテーマを選ぶ)し、唐突な、そしてどこか物悲しい終わり方には含蓄がある(今から見れば、その終わり方がなにか日本というか、日本人の行く末を暗示しているようにも見える)と感じられるが、やはり基本的には他愛もない映画だ。そんな他愛もない映画が今も見続けられ、面白がられているのは、もちろん成瀬巳喜男と高峰秀子が初めて組んだ作品であるという要素もあるが、それよりもまず、この作品の何かが私たちの中にあるノスタルジーを掻き立てるからなのではないかと私は思うのだ。
  そして、そのノスタルジーとはわれわれが実際に体験した“昔”に対する個人的な郷愁とは異なったノスタルジーなのである。私自身のことを考えてみれば、生まれたときにはもう車掌の乗ったバスなんてなかったし、荒物屋なんてのも見た記憶はほとんどない。ラムネよりはコカコーラをのみたかったし、ボンネットバスなんかよりスーパーカーのおもちゃが欲しかった。にもかかわらず、今になってボンネットバスやラムネや荒物屋にノスタルジーを覚えてしまう。それは、イメージとしての“昭和”に対するノスタルジーである。明治・大正・昭和・平成などという元号などただの時代区分であり、意味のないものではあるが、そのように区切られることで、人間はそのそれぞれに何か意味を求めるようになってしまう。そしてそれはその時代が過去になることでそのイメージ化がようやく始まるのだ。明治といえば文明開化、牛ナベに鹿鳴館。大正といえばデモクラシーにモボ・モガ。そして今、平成になって20年近くがたって昭和という時代のイメージ化がなされつつあるのだ。そしてそのイメージの中心にあるのは昭和30年代である。昭和という経験を持つ私たちは昭和をイメージ化し、その中心を昭和30年代に据えることで、“昭和”に対するノスタルジーを掻き立てる。この作品が作られたのはもちろんそれよりはるか以前の昭和10年代だが、“昭和”というイメージには見事に合致するし、成瀬巳喜男と高峰秀子というまさに昭和30年代に映画界のメインストリームにいたコンビの作品として強く“昭和”というイメージに結びつくのだ。
  映画を見ているときはノスタルジーだとか、それが記憶やイメージとどう結びつくかなんて事は意識しないし、もちろん制作者は数十年後に作品がそのようなものと結び付けられることを考えてなどいない。しかし、昔の作品(この作品が作られたのは考えてみれば60年以上前だ)を見るとき、そこには常にそのようなイメージが付きまとっている。その時代をリアルに体験した70代以上の人々を除けば、そのようにイメージをもとに見るしかないのだ。そしてそのように見ることで、またその時代が魅力的に見えてくる。だから映画も面白く見れる。川本三郎はそのような映画のノスタルジーの結びつきをものを結節点として「映画の昭和雑貨店」という連載で見事に表現し、この『秀子の車掌さん』もその連載にたびたび登場した。
  そんな切り口で映画を見るのも、ひとつの見方だし、昔の映画を楽しむ非常に有効な手段のひとつなのだと強く思った。
  映画論から大きく離れてしまったが、このような見方は成瀬巳喜男と高峰秀子の作品と切っても切れない関係にあるものだ。“女性映画”というテーマ的なものに加えて、“ノスタルジー”という見方の問題を加えると、成瀬映画の現在的な意義がよりよく見えてくるのではないだろうか。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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