かもめ食堂
2006/11/20
2005年,日本,102分
- 監督
- 荻上直子
- 原作
- 群ようこ
- 脚本
- 荻上直子
- 撮影
- トゥオモ・ヴィルタネン
- 音楽
- 近藤達郎
- 出演
- 小林聡美
- 片桐はいり
- もたいまさこ
- ヤルッコ・ニエミ
- タリア・マルクス
- マルック・ペルトラ
フィンランドのヘルシンキにオープンした“かもめ食堂”に、開店して1ヶ月で初めてのお客が来た。しかし、それは日本かぶれの青年で店主のサチエにガッチャマンの歌の歌詞を教えてくれという。それが気になって仕方がないサチエは、本屋で見かけて日本人に声をかけて聞いてみる…
『バーバー吉野』の荻上直子がオールフィンランドロケで群ようこの原作を映画化した作品。面白くはあるが好みは分かれるところではないか。
この映画と食堂とサチエ、この3つが完全に一致するということがこの映画の全てではないか。まずわかりやすいのは、食堂である。この食堂はこじんまりとしていてこぎれいで、少しかわいげがあるけれど、きっちりとした場所でもある。そのきっちりとしている部分が人を寄せ付けない部分であり、開店して1ヶ月間人が来なかったというわけだ。
しかし、トンミという日本かぶれの青年は食堂とは無関係な「かもめ」という日本語に魅かれて食堂に入ってきて、そこに居座り、毎日前を通りながらこの店を無視してきたおばさんたちはシナモンロールの匂いに引かれて食堂に入ってくる。それはこの食堂のきっちりとしたイメージを破る別の要素によるものだ。何かによって食堂のきっちりとした部分が崩れたとき、人がそこに吸い込まれるのだ。
それはサチエについてもいえる。サチエは毎晩の合気道の型を見てもわかるように凛とした姿の女性であり、客にむやみに話しかけたりもせず、客引きをしたりもしない。そんな彼女が人を惹きつけるのはまず、ガッチャマンの歌という非常にナンセンスな要素によるものだ。それによってミドリはサチエの世界に入り込む。入り込んでしまえばそこは非常に居心地がよいこじんまりとしてこぎれいな空間なのである。
そして、食堂もサチエも非常にホスピタリティに溢れている。しかし、それをことさらに表に出すことはしない。暖かくはあるけれど相手に干渉することはしないのだ。入ってきた相手に対しては暖かさを見せるけれど、それを求めてこない相手に対してはそれを押しつけはしないのだ。
映画も基本的にはそのような性質を持つ。非常にきれいで印象はいいのだが、あまりに隙がない。それは完成された空間であり、観客が座を占める場所がないのだ。観客はただサチエやミドリを眺めるだけである。そのようになる理由として大きいのは彼女たちの過去が見えないということだ。過去に何かがあってここに来ているということはわかるのだが、具体的にそれがどういうことなのかは想像すらできない。それではその世界に入って行くことは難しく、まるでかもめ食堂の客であるかのように、その暖かさにわずかに触れるだけで満足しなければならないのだ。
しかし、マサコがそのような空間に少しだけ風穴を開ける。マサコはサチエと非常によく似ているのだけれど、マサコには過去がある。彼女はフィンランドにやってきた理由がしっかりとある。彼女はおそらくなくしたものを見つけるためにフィンランドにやってきたのだが、そもそも何をなくしたのかがわからないのだ。そのなくしたものを見つければ彼女は新しい人生をはじめることができる。しかしそれを見つけるまではフィンランドにいるしかない。そこでのんびりと過ごすしかないのだ。
そのような彼女のあり方は翻ってほかの2人のあり方を意味づけなおす。彼女たちも何かを見つけるためにここにやってきたのだと。
この映画のいいところは、その細部である。細かなエピソードや映っているものの美しさ、それらをゆっくりとしたリズムの物語に織り込むことで、考える間を与え、何もないところに何かを浮かび上がらせる。人生とは細部によって成り立つものだ。人は大きな物語に目をやりがちだが、大きな物語というのは常に無数の小さな物語から成り立っている。そんな細部に目を向けることによって、今まで見えていなかったものが見えてくる。そんなことを考えながら、お湯に膨らんでゆくコーヒー豆をながめたくなる映画だ。