藤十郎の恋
2006/11/22
1935年,日本,63分
- 監督
- 山本嘉次郎
- 原作
- 菊池寛
- 脚色
- 三村伸太郎
- 撮影
- 三浦光雄
- 音楽
- 宮城道雄
- 出演
- 長谷川一夫
- 藤原釜足
- 入江たか子
- 汐見博
- 御橋公
- 滝沢修
- 高峰秀子
京都一とも言われる狂言の名手坂田藤十郎、その一座の芝居小屋の前に江戸一番の名人といわれる中村七三郎の小屋がでた。最初は藤十郎が圧倒的な人気を誇っていたのだが、七三郎の新しい狂言に敬服する籐十郎が新しい狂言を目指して演目を変えると情勢はいっぺん、籐十郎は小屋を閉めざるを得なくなってしまう…
長谷川一夫の東宝移籍第一作であり、代表作のひとつ。彼自身この藤十郎の役を戦後にも演じている。
前半は芸に行き詰まった藤十郎の苦悩を描くというだけの展開で、たいして面白くはない。この作品が作られたのは昭和13年であり、映画に対する統制が強まった時期と重なる。成瀬巳喜男が「芸道もの」といわれる伝統芸能に生きる人々を描いた作品を次々と撮ったのもこの時代であった。それは、伝統芸能を描くということが、ある意味で日本の伝統文化を賛美することであり、日本の国威の高めることにつながったために、規制を受けにくかったからだ。成瀬は芸の道に生きる人々の中に彼の求めるドラマを見つけ、それを描き込んで行った。
この作品が実質的に東宝移籍ご最初の出演作となった長谷川一夫はこの『藤十郎の恋』と同じ年に、成瀬の芸道ものの代表作『鶴八鶴次郎』にも出演している。だから、この『藤十郎の恋』から成瀬の芸道ものを思い起こすのは当然といえば当然なのである。そしてこの作品の前半も『鶴八鶴次郎』も、長谷川一夫演じる芸人が苦境に陥るという展開になっているのである。
前半の展開としてはそんなことを思うくらい、あとは近松門左衛門が登場することに「おっ」と思うくらいであるが、おそらくこのあたりでは林長二郎改め長谷川一夫のなまめかしい二枚目っぷりと、そのとろけるような声を観客に楽しんでもらおうという目論みもあるのだろう。
しかし、物語が中盤に差し掛かると、がらりと変わる。芸の工夫が付かずに悩んでいた長谷川一夫演じる藤十郎は、入江たか子演じるお茶屋の女将のお梶に10年来の思いのたけをぶつけるのだ。その思いの強さに感じ入ったお梶は思わず泣き崩れる。そしれそれを見た藤十郎ははたと何かに気づいたような顔をして座敷を後にするのだ。この藤十郎の行動は何を意味するのか。この直後、藤十郎は今の場面そのままの場面を芝居で演じ、相手役にお梶の行動とまったく同じ行動を演技させる。それを見ると、藤十郎はその演技の工夫を得るためにお梶に対して嘘のモーションをかけたのかとも思えるが、その相手役を見つめる藤十郎の視線や、その告白をした当の瞬間の様子を見ると、その思いが必ずしも嘘だとも思えない。その真偽は明らかにならないまま、藤十郎は稽古に打ち込み、遂に初日を迎えてしまうのだ。
この間の緊張感は、本当にすごい。ここに表れているのは芸の道と恋の道、そのどちらをとるかという選択の問題であり、そしてまた芸を追及するということのものすごさである。作品の前半で近松門左衛門は藤十郎に対して芸を極めるということの凄まじさは武士の道よりもすごいものかもしれないのだと言う。思えばここに、この後の展開がほのめかされてはいたのだ。
そして、長谷川一夫はその芸の道を極めんとする主人公の凄まじい生き様を見事に演じる。
山本嘉次郎の演出はなんだか前衛映画じみた部分もあるが、それは映画の緊張感をます助けをする事はあれ、邪魔する事はない。映画の中盤にある傘を持った三人の娘が不自然に並んで歩くシーン、このシーンには「つくりもの」ということの意味が込められている。それは、映画が作りものであるということを示すと同時に、芸の道に生きるということが作り物である芝居を作るために捧げられる作り物の人生であるということをも示しているのかもしれない。芸を極めんとするものには真実の生活などというものはなく、ただただ作り物の人生があるだけ。その人生は全てが芸のために捧げられ、芸を離れた人間としての真実の生活などというものは存在しないと。そのような冷たく厳しい芸の道は周囲の人間を犠牲にして成り立つと主に、その道を極める藤十郎自身をも犠牲にするものなのである。
この映画の最終盤に藤十郎の顔を三方向から映したクロースアップをものすごい短いカットでつなぐモンタージュからなるものすごいシーンがある。このモンタージュによって映し出される藤十郎の顔には緊張感が漂っているようにも見えるが、それがコマ送りのようにつながれることで、どこか死人の顔のようにも見える。厚く塗られた化粧のせいもあるのだろうが、その顔には生気がなく、青白い。このシーンが暗示するのは、彼はもう現実の人間としては死んでしまったということではないのか。芸に生き、芸の道を究めるために自分の人生を犠牲にした籐十郎はもはや狂言の舞台の上に存在する虚像としての藤十郎以外にはない。そのようなことをこのシーンは語っている。
そのように考えると、藤十郎のお梶に対する告白は真実であったのだ。真実であったからこそ、彼はその心をお梶に伝え、お梶から真の返答を聞くことが出来た。それにお梶が答えてくれたこと、それは彼にとっても本当ならばこの上なく幸せなことだったに違いない。しかし、籐十郎は厳しく凄まじい芸の道に生きることに心を決め、そのお梶の気持ちにこたえることよりも、それを芸に生かすことをまず考えた。彼自身の真実の気持ちとお梶の真実の気持ち、それを舞台のうえで演じることによって彼は芸の道を究めることが出来るのだ。
しかし、それによって彼は現実を切り捨てもした。彼は自分自身の想いを芸の道に注ぎ込むことで、現実にはその想いを遂げる事は出来なくなってしまった。昨今の甘っちょろいラブストーリーなら、真実の想いを見事に芸に生かして、最後には「あれは真実の想いだったんだ」とお梶に告白することで大団円となるのだろうが、この物語はそうはならない。
この物語の結末は、やはりこの物語が伝えようとしているのが「芸の道はそんなに甘っちょろいものではない」ということであることを意味する。自分の想いと人生をも犠牲にしなければそれを極める事は出来ないのである。その苦しさを抱えて舞台へと向かう藤十郎の心に去来する葛藤には誰もが感じ入り、その苦しみを共有することになる。
結果的には、この話は大きな目的のために自己を犠牲にするというテーマにつながるという意味で、戦時の映画に対する統制の方針にそったものとなった。それがこの映画にとって幸せなことだったのかどうかはわからないが、その結果、当時の人々も今を生きるわれわれもこの映画を見ることが出来たなのだから、それは素晴らしいことだったと想う。
移籍騒ぎで顔を切りつけられた長谷川一夫の顔の厚塗りが、クロースアップになったところで彼の顔のほくろを消してしまうというのも、ひとつの映画史の証言として貴重なものである。