アメリカ、家族のいる風景
2006/12/9
Don't Come Knocking
2005年,アメリカ=ドイツ,124分
- 監督
- ヴィム・ヴェンダース
- 原案
- サム・シェパード
- ヴィム・ヴェンダース
- 脚本
- サム・シェパード
- 撮影
- フランツ・ラスティグ
- 音楽
- T=ボーン・バーネット
- 出演
- サム・シェパード
- ジェシカ・ラング
- ティム・ロス
- ガブリエル・マン
- サラ・ポーリー
- フェアルーザ・バーク
西部劇スターのハワード・スペンスがユタ州の撮影現場からいなくなる。彼は馬を乗り捨て、隣州に暮らす母の元をたずねることにする。その母と会うのは30年ぶり、長く音信普通だったのだ。そこで彼は自分に息子がいることを聞く…
ヴィム・ヴェンダースが『パリ、テキサス』以来20年ぶりにサム・シェパードと組んだ作品。中年男と周囲との関係を描いた力作。
物語は散漫とした印象で始まる。突然、撮影現場を離れる映画スター、彼の目的は明らかではなく、30年もあっていなかった母親のところに滞在するという。一方で、なくなった母親の遺骨を持って車で旅する若い女性がいる。そのふたりの物語がどこかで交差するということは予感させながら、物語がどこへ向かっているのかは漠然としている。
しかし、この主人公のハワードという男について少しずつ明らかになっていくと、彼もまた散漫な印象の人間であるということがわかってくる。彼は数十年間のスタートしての生活で他人に対して常に警戒心を抱くようになり、簡単に言えば“いやな”人間になっている。母親はそのことをたしなめ、周囲に気を使うが、本人はそのことに気づかない。彼は周囲に気を使われることに慣れ、自分以外の人間の考えを完全にシャットアウトしてしまっているのだ。
彼がどこか行き詰まった感覚を持っている原因がそこにあるということは映画の前半で明らかになる。彼は周囲と交わることがないのだから、彼の思考はすぐに資源を失い行き詰まる。彼はそれを酒やクスリといった手段でごまかし、何とか保ってきたわけだ。しかし、それも限界にいたり、彼はどこかで心を通じることができる人間を求めた。そのためにまず思いついたのが母親だったというわけだが、30年という歳月はもちろん容易には埋まらず、彼はまた逃げる。
しかし、そこで彼は「息子」という新しい手がかりをつかむ。血のつながった息子に出会うことで何か突破口が開けるのではないかと考えるのだ。しかし、彼は自分自身が行き詰まっている原因を自分自身ではわかっていないために、闇雲に息子に会いに行き、まったく変わっていない自分をぶつけることで失敗する。結局彼は自分の心を開くことなく、相手が心を開くこともとめているのだから、うまくいくはずがない。
これをみて思い出すのは同年にジャームッシュが撮った『ブロークン・フラワーズ』だ。同じく中年の男がまだ見ぬ息子を探すたびに出かけるという物語、ジャームッシュはヴェンダースの影響を強く受けているだけにスタイルも似ている。
このふたつの作品に共通するのはこの主人公が失われた時間を取り戻そうとしているということだ。存在すら知らなかった息子を探す旅が象徴しているのは家族を省みることなく人生を送ってきた中年男性の後悔である。仕事に没頭して数十年を過ごし、余生が見えてきたとき、何かを失っていたことに気づく。それが“息子”に象徴されるのだ。息子は失ったものを象徴すると同時に、自分ができなかったことをこれからすることができるという希望をも象徴している。その意味では、日本で言うところの団塊の世代に共通する想いがそこに描かれているのではないかと思う。
この作品が優れているのは、それを一般的に描くことを拒否している点にある。この旅は中年男性の思いを象徴してはいるが、この主人公は中年男性を代表していはいない。彼に起きる出来事は彼だけのものであり、その個別性は際立っているのだ。そのように個別的であるがゆえにこの物語は非常にリアルだ。彼と息子との出会い、その母親との会話、それは単純には解釈できない人間の想い、ハワードがしくじり続けている他人の想いに耳を傾けることの難しさを見事に表現している。
それは普遍的ではないがゆえに、理解しにくくはあるが、そのような理解しにくさがあるがゆえにこの作品は魅力的になっている。映画を見ているスピードではなかなか理解できないこともあるが、それをあとでゆっくり考えるというのも映画の楽しみのひとつであるのだ。