アンダルシアの犬
2007/3/16
Un Chien Andalou
1928年,フランス,17分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- サルバドール・ダリ
- 撮影
- アルベール・デュベルジャン
- 出演
- ピエール・バチェフ
- シモーヌ・マルイユ
- ハイメ・ミラビエス
- サルバドール・ダリ
- ルイス・ブニュエル
かみそりを研いでいた男が女の眼球を真っ二つにするシーンで映画ははじまる。ストーリらしきものはかすかにあるが、基本的には奇妙なイメージの羅列で、気持ちの悪いもの、不思議なものが並べられ、歪められ、提示される。
アヴァンギャルド映画とシュールレアリスム芸術が結合した映画史に残る未曾有の名作。巨匠ルイス・ブニュエルにとってこの17分の作品が代表作であるというのはものすごい話だ。
バルコニーでかみそりを研ぐ男が満月を見上げ、あんなの頭に手をやる、雲が満月を横切り、かみそりが女の眼球を切り裂く。このあまりに衝撃的な冒頭のシーンによってこの作品は映画史に刻まれた。このシーンから観客が感じるのは恐怖と嫌悪である。自らが目を切り裂かれたような痛みを感じると同時に、切り裂かれた眼球という気味の悪いものに対して嫌悪を感じる。この一瞬でブニュエルはそれを表現してしまった。人間が肉体への驚異に大して感じる恐怖と、異化されてしまった肉体への嫌悪、それを見事に表現したこの一瞬に私は感服する。
そしてこの作品はその恐怖と嫌悪に全編覆われていると言ってもいい、男の手のひらに開いた穴から湧き出す蟻、男が引きずるピアノの上に乗せられた牛の死体、舗道に転がっている切り取られた手、口をぬぐい取られてしまった男の顔、それはどれも人間の肉体がわずかな瑕によって異化されてしまったものである。生かされた肉体に対する人間の嫌悪、それを描き続けることでこの作品はわれわれにわれわれ自身の知覚のあり方を問い直すように迫るのだ。
さらにこの作品には様々な挑戦を私たちに仕掛ける。一見、無関係な断片の連なりに見えるこの作品だが、その断片同士は実はつながっている。しかし、それは時間と空間が捻れた関係性によってつながっており、その捻れがそのまま映像として表現されているのだ。例えば女が男から逃れてドアを出ると、男の手がそこに挟まる(まずそれが舗道に落ちていた手を思い出させる)が、そのはさんでいるドアのこちら側にあるのは先ほどまでいたドアなのだ。
この時間と空間の捻れにおいて重要になるのはまずこのドアである。このドアはあらゆる時間と空間につながっており主人公である女はあらゆる時間と空間を自由に行き来するのだ。精神分析的な見方をすればこのドアが何かを象徴してると言えそうだが、分析的ではなく見る限りはこのドアは魔術的なメディアでありリアルとシュールをつなぐ出入り口であるように見える。そしてそれは映画という虚構と現実をつなぐ出入り口でもあるのかもしれない。虚構と現実を行き来するための魔術的な隙間がそこに口をあけているのである。
この魔術的という部分はこの作品に映画史的な考察を加えさせる。この作品が数多く取り入れている“特撮”はメリエスのトリック撮影を想起させる。メリエスが発見した人が消えるトリック撮影のまっすぐの延長線上にこの作品はあるのだ。魔術師メリエスが発見したトリックをシュールリアリストダリが援用する。魔術とシュールリアリズムの奇妙な親和がここに表れているようだ。
そしてこのような映画史的な考察から、この作品の現代的な意味へと考えを進めると、そこに浮かび上がってくるのはこの作品の辛辣さである。この作品は人々の恐怖と嫌悪を催させるが、この作品はおそらく人が眼を背けるように作られた最初の映画なのではないだろうか。これまでにもホラー映画などは存在し、人々に恐怖を催させる作品はあったが、それでも人々は怖いもの見たさでそれを見たがるのだ。しかしこの作品は人々がそれを観たくなるようにはまったく作られておらず、むしろ目を背けたくなるように作られているのだ。
しかしそれでも人々はこの作品から眼を背けることはできない。それはこの作品が投げかけているものを私たちは見つめなければならないからである。この超現実がわれわれに投げかける恐怖と嫌悪感は、われわれの生きる現実に存在する恐怖と嫌悪であり、私たちはそこから眼を背けて生きて行くことはできない何かなのだ。ブニュエルはシュールレアル(超=現実)に立つことで、その現実の見取り図を描くことができた。私たちはその見取り図を元にブニュエルが組み立てた空間(もう一つの現実)に迷い込み見たくはないものに無理やり目を向けさせられるのだ。
そんなことを考えながらミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』を思い出した。何の理由もなく監禁され、いたぶられる経験を坦々と描いたこの作品から感じるのも恐怖と嫌悪であり、眼を背けた意が背けることができない現実がそこに存在した。空間や時間の捻れは存在しないが、テーマ的な部分ではこの『アンダルシアの犬』を限りなく敷衍したもののように感じられるのだ。
現代の映画にまで果てしなく大きな影響を与えている『アンダルシアの犬』、これはまさに映画史上最も濃密な17分間といえるだろう。