ベニーズ・ビデオ
2007/3/17
Benny's Video
1992年,オーストリア,105分
- 監督
- ミヒャエル・ハネケ
- 脚本
- ミヒャエル・ハネケ
- 撮影
- クリスチャン・ベルジェ
- 出演
- アルノ・フリッシュ
- アンゲラ・ヴィンクラー
- ウルリッヒ・ミューエ
豚が屠殺される様子を映したホームビデオ、それを撮った少年ベニーは様々なビデオ機材を持つ中学生、両親が留守にしたある日、ベニーはレンタルビデオ屋の前でいつも見かける少女に声をかけ、自分の家に呼んでビデオを見せる。そして、帰ろうとする少女を強引にひきとめ…
オーストリアの鬼才ミヒャエル・ハネケの長編第2作、鋭い描写と辛辣なメッセージが突き刺さり、観ているだけでつらくなるようだが、そのメッセージは力強い。
ミヒャエル・ハネケは常に辛辣だ。この作品は初期の作品(監督第2作)だが、この時ハネケはすでに50歳、本来ならば巨匠の仲間入りをしてもいい年齢だった。ミヒャエル・ハネケは映画評論家、TV局の脚本家、舞台の演出家などを経て、1989年47歳で映画監督としてデビューした。そして、この作品が第2作であり、この作品を見ると彼が遅れて来た天才監督であるという感想を持たずにはいられない。
この映画はホームビデオで撮影された豚の屠殺シーンで始まる。これを見てすぐにワイズマンの『肉』を思い出したが、ドキュメンタリーである『肉』の機械的な屠殺よりもこの作品の屠殺のなんと生々しいことか。豚は実際に屠殺されているわけだから、このシーンに限ってはドキュメントともいえるのだけれど、脳天に弾丸を打ち込まれた豚がピクリピクリと痙攣するさまはあまりに強烈で、肉体が拒否反応を起こしてしまう。そして、その屠殺シーンは巻き戻され、今度はスローモーションで再生される。そこで再生される音は増幅されて、地の底から響く叫び声であるかのようにも聞こえてしまう。
少年は、そのようなビデオを撮り、『悪魔の毒々モンスター』のビデオを見る。姉が始めたねずみ講を真似て、自分でもクラスメイトの間でそれをやろうとする。レンタルビデオ屋の前で見かけた少女に話しかけ、両親が不在の家に誘い、空々しい会話を交わす。この会話には少年の底意が透けて見える。果たしてそれが何なのかはっきりとはわからないのだが、少年の無表情さと会話と会話の間に漂う奇妙な沈黙が、少年に何か恐ろしい考えがあることを匂わせる。
“空恐ろしい”そのような言葉がこの作品にはピタリと来る。迷いなく少女の体に弾丸を撃ち込んだ少年は、まるで楽しむかのように床に流れた血をぬぐい、カメラはテーブルにこぼれた牛乳をまるで同じように映し出す。
少年が自分で撮影した空恐ろしいビデオを止め、テレビに切り替えると、戦争のニュースが流れている。そこに存在する対比からはさらに空恐ろしい連想が湧き出てくる。この作品自体はフィクションではあるが、その中に入れ込まれた戦争は豚の屠殺と同様にドキュメントなのだ。
あるいは、エジプトへと旅した少年が撮影した風景に刻まれた裸の子供たちはどうか。豚の屠殺も、姉のねずみ講も、少女の殺害も、パラセーリングも、テレビのニュースも、エジプトの子供たちも、少年のビデオの中ではまったく等価なものだ。現実では、まったく異なる価値を持つはずのものを、まったく等価なものとしてただ並べる、そのミヒャエル・ハネケの冷徹な目にわれわれは戦慄を覚えずにはいられないのだ。
そしてそれこそがハネケの天才的なところである。彼の作品が作り出す沈黙からは現実が湧き出してくる。私が冒頭のシーンでフレデリック・ワイズマンを思い出したのはただ屠殺という共通項があったからではない。ハネケもワイズマンもわれわれに何らかの視点や価値観を押し付けない代わりに、われわれが考えざるを得ないような材料を押し付けるのだ。
この空恐ろしさの根底にあるのは何なのか、突きつけられた材料から考えてみると、それは「罪の意識の希薄さ」にあるのではないかと思い立つ。姉のねずみ講は単なるエピソードではない。そこにはこの家族の「罪の意識の希薄さ」が象徴的に表れているのだ。彼らはこのねずみ講をある種のギャンブルのようなもの、投機的な商売だと考えている。このシステムが最終的には膨大な被害者を生む詐欺的な手法であることには目を向けず(そのこと自体は母親が読む新聞に詐欺事件の記事が載っていることで観客に対しては提示されているが、母親はそれを無視する)、ただ自分たちの利益になるかどうかだけを考えているのだ。
そして、その考え方は彼らの全ての行動に当てはまる。少年をこのような行動に突き動かしたのはその「罪の意識の希薄さ」なのである。彼は“罪”というものが何か親から教えられることがなく、それがどのようなものかをとらえることができないのだ。だから、それがどのようなものであるかを身をもって体験しようとしているのである(この映画が結末を迎えても、彼はそれを体験したのではなく、体験しようとしているに過ぎない)。
彼はもしかしたら現代のラスコーリニコフなのかもしれない。ドストエフスキーが『罪と罰』提示した“罪”に対する考え方と、ハネケがここで提示している“罪”に対する考え方は異なっているけれど、今は“罪”についてこのように考察するしかないのかもしれない。現代では“罪”は超越するものではなく希釈されるものなのだ。
本当に恐ろしい。