グエムル -漢江の怪物-
2007/4/7
Gwoemul
2006年,韓国,120分
- 監督
- ポン・ジュノ
- 原案
- ポン・ジュノ
- 脚本
- ポン・ジュノ
- ハ・ジョウォン
- パク・チョルヒョン
- 撮影
- キム・ヒョング
- 音楽
- イ・ビョンウ
- 出演
- ソン・ガンホ
- ピョン・ヒボン
- パク・ヘイル
- ペ・ドゥナ
- コ・アソン
漢江のほとりで売店を営むパク一家、長男のカンドゥはいつも寝てばかりだが、父親にせっつかれて商品を届けに行くと、川から恐ろしい巨大な怪物が現れる。皆が逃げ惑う中、カンドゥも妹ナムジュのアーチェリーの試合を観戦していた父のヒボン、娘のヒョンソとともに逃げるが…
『殺人の追憶』のポン・ジュノによるパニック映画。韓国では記録的なヒットとなった。
水質汚染が怪物発生の原因はどこかで聞いたことがあるというよりはよくある設定で何だかなぁと思うが、こういうパニック映画では大体怪物の姿というのは映画の中盤まで隠され、見えない恐怖を演出する定番を打ち破り、いきなり目玉の怪物が登場するという展開には多少の斬新さがある。そして、その原因を作ったのが米軍であり、その後の対応でも米軍の秘密主義や治外法権的思想が随所に表れるのは日米地位協定によって同じような理不尽さを味合わされている日本人には共感できるところだ。
しかし、そのような立ち位置をとりながら、この作品は思いっきりハリウッドのパニック映画をなぞっている。主人公(達)が単独で戦わざるを得ない状況を作り、いくつかの偶然と奇蹟によってそれを成し遂げるという古くからのパニック映画のパターンを丁寧に踏襲しているのである。何かアメリカに対してアンチの立場をとりながら、この映画がアメリカ映画以上にアメリカ映画的な体裁をとっているのはなんとも居心地が悪い。
そして、その居心地の悪さを緩和するためか、そのパニック映画にアメリカ/ハリウッド的でないものを無理やり押し込もうとする。主人公カンドゥのやたらと寝る体質や突然ヒョンソが4人の前に現れるという非現実的な展開からはそのような意図が感じられるのだ。 だが、それらのエピソードや展開はプロットにまったく寄与していない。それらはただの思わせぶりなモーションに過ぎないのだ。その思わせぶりなモーションは、ハリウッドの典型的なヒロイズムに対するパスティーシュであり、この作品を非ハリウッド化する「すかし」であるとも考えられるのだが、(例えばジョン・カーペンターのように)そこまで徹底的に壊しているわけではない。
ポン・ジュノのこれまでの作品『ほえる犬は噛まない』や『殺人の追憶』は面白かったのだが、どこか思い切りが足りないという気もした。どちらも面白い領域に踏み込んでいるのに、それを突き抜ける面白さを生み出しえていないという「あと一歩」の感じがあったのだ。この作品はその「あと一歩」の感じが全編に満ちた作品という感じだ。
ただそれを現実的(=リアリズム)だということもできなくもない。ハリウッド的なヒロイズムはもちろん荒唐無稽なフィクションであり、この映画のように意気地なしで間抜けな人たちのほうがリアルなのだ。しかし、これはエンターテインメントであり、作品全体もエンターテインメントの体裁をしている。そうである以上、観客を楽しませなければ作品として成功しているとはいえないのではないか。エンターテインメントの体裁をしながら中途半端なリアリズムを見せる(結末を見れば、このリアリズムが中途半端なものであることは疑いがない)、それは非常に悪趣味なことのように私には思える。
しかし同時に、これだけいろいろな意味で観客を裏切れば、観客は混乱し、ここに何がしのものがあるような気がするのも理であるとも思う。それはまさにグエムルのように外見ばかりに迫力があり、中身は空っぽの豪華な張りぼてのようなものなのだけれど、それで観客が圧倒され、喝采を送るのなら、それも一種の(ひねくれた)エンターテインメントの形であるとも思ったりする。いろいろの要素を本当にごった煮のように入れ、何がなんだかわからないうちに圧倒されてしまう。それも強烈な体験ではある。そこまで計算しているのだとしたら、この監督はものすごく計算高い作り手なのだと思うが、果たしてそれでいいのか。どこかで中身を伴うような作品を作らないと、観客に飽きられてしまうのではないだろうか。