チャップリンの独裁者
2007/9/6
The Great Dictator
1940年,アメリカ,126分
- 監督
- チャールズ・チャップリン
- 脚本
- チャールズ・チャップリン
- 撮影
- カール・ストラス
- ロリー・トザロー
- 音楽
- メレディス・ウィルソン
- 出演
- チャールズ・チャップリン
- ジャック・オーキー
- ポーレット・ゴダード
- チェスター・コンクリン
第1次大戦末期、トメニアの兵士チャーリーは飛行機の墜落事故で記憶喪失に陥り、敗戦後十数年にわたって入院生活をする。その間にトメニアでは独裁者ヒンケルが力を握り、ユダヤ人たちを迫害していた。病院を抜け出したチャーリーはそんなことはまったく知らずにユダヤ人街に帰り、そこで親衛隊とひと悶着起こすが…
当時まさに脅威となっていたヒトラーとナチスを風刺し、笑い飛ばした社会派コメディドラマ。チャップリンの思想はここに結実し、未曾有の名作となった。チャップリンの本格的なトーキー第1作でもある。
このあまりに有名な作品は、ヒトラーを思い浮かべると同時にここでチャップリンが演じた独裁者を思い浮かべてしまうくらいに人々の心に焼き付いている。チャップリン自身がヒトラーに偶然似ていた(ヒトラーがチャップリンを意識していたという話もあるが)ということからこの映画は生まれ、「独裁者ヒンケルとユダヤ人の床屋が似ているのは単なる偶然である」という言葉で映画は始まる。
時代背景としては、アメリカはまだ中立であり、国内には強行を脱したヒトラーを評価するむきもあり、反ユダヤ主義もプロテスタント国家であるアメリカには根強かった。そのためチャップリンは非米活動委員会に目をつけられもした。しかし特に公開に関して制限がつくことはなく1940年10月に公開、批評家から高い評価を得ると共に、ヨーロッパの観客に熱狂的に迎えられた。第1次大戦を題材にした『担え銃』の時もそうだったが、チャップリンの戦争映画はアメリカよりもヨーロッパで受け入れられやすいのかもしれない。
もちろん、チャップリンはそもそもヨーロッパ人であり、イギリス時代には反ユダヤ的なギャグをユダヤ人地区でやってしまい大顰蹙を買ったなどという経験持っている。だからチャップリンの人種意識というのはヨーロッパ人的であったはずだ。その彼が威張り散らしているだけで意気地のない独裁者と心優しいが本当は勇敢なユダヤ人の床屋という二役を演じたことの意味は果てしなく大きい。
映画を見ていて思うのは、どちらも間違いなくチャップリンであり、そのふたりに違いはないということだ。独裁者とユダヤ人、殺すものと殺されるもの、対照的な二者の間に違いはないという皮肉。実際ユダヤ人というのは民族ではないのだから、これはありえないことではないし、ユダヤ人という想像上の民族に対する迫害のナンセンスさを二役を演じることによってチャップリンは表現しているのだろう。
このようなメッセージにあふれたこの映画は基本的に喜劇ではない。非常にシリアスな物語にチャップリンらしいギャグがちりばめられた作品なのだ。チャップリンのフィルモグラフィーはドタバタ喜劇から始まり、ヒューマンドラマとしての味わいを徐々に加味してきたが、ここに来てその関係は完全に逆転し、ギャグをちりばめたヒューマンドラマとなったわけだ。しかし、それでいいのだろうと思う。チャップリンという役者は喜劇だけにとどまる役者ではないし、優れた喜劇役者というのはシリアスな演技をさせてもうまいものなのだ。
ギャグのほうで注目に値するのはヒンケルの意味不明な言葉だ。でたらめなドイツ語風の言葉には時々意味のわかる単語が含まれ、それが繰り返され、なんとはないおかしさを生む。詳しく分析するとなんとなく意味が取れるようだが、それは完璧主義者チャップリンのこだわりであって、観客にそれを求めているわけではないだろう。それよりも重要なのは、彼の言葉が“笑い”の対象となるということだ。この理解不可能で“おかしな”言葉は彼が我々とは隔絶した他者であることを暗に示しているのだ。もちろん、先に書いたように彼はこのヒンケルとユダヤ人の床屋が変わらないということも同時に描くことで一方的な視点に陥ることを防いでいる。このあたりはさすがにチャップリンのバランス感覚のよさだろう。
一方、シリアスさが最高潮に達するのが有名な最後の演説である。チャップリンが心の底から叫ぶようなまじめな演説には本当にすばらしい言葉があふれている。自由と人間を愛するチャップリンの、飾らない言葉がここに吐き出されているというべきだろう。それは自分と偶然にも似ていたヒトラーといおう独裁者に対するメッセージである。
ただ、この最後の演説は独裁者の言葉にも聞こえる。演説の中でも言われているように、民主主義という名の下に実は独裁政治を行う独裁者の言葉も耳に優しいのだ。われわれはこれをいかに聞き分ければいいのか。愛があれば憎しみは生まれないというが、その愛を利用して人々を陥れる独裁者にわれわれはどう対抗すればよいのか。この演説は堂々とそしてまっとうに自由と民主主義を主張するが、この演説はそもそも聞いている人々の耳には独裁者の言葉として聞こえるはずのだ。
ただ、ハンナにはこれが独裁者ではなく一人の人間の心の叫びだということがわかるとすることで、そこに救いを見出そうとしている。しかし、この声がハンナに聞こえるときに、それが天の声のように聞こえるという点には疑問が残る。信仰と結びついた思想は果たして公平さを保ち続けることができるだろうか。説明を必要としない神の言葉は独裁者の言葉とどこかに通っている。
この作品はすばらしい作品だし、いろいろな面でもほめることは簡単だ。しかし、諸手を挙げて賛美することにはわずかの疑問も覚える。チャップリンの平和主義には賛同したいが、そこには危ういものも見え隠れする。実際彼は赤狩りの波の中でアメリカを離れざるを得ないことになる。彼はもちろん共産主義者ではないが、彼の思想にどこか危うさが伴っていたためにそのような事態に巻き込まれることになってしまったのではないか。もちろん誰にも未来を予見することはできない。チャップリンにも他の誰にも、彼の平和主義がいつか糾弾されることになるなどということは思い及ぶわけはなく、力いっぱいにヒトラーに“NO”を突きつけただけなのだが、映画に関しては完ぺき主義であり同時に完全であったチャップリンも思想、理論武装という面では完全ではなかった。
『モダン・タイムス』で赤旗を仕方なく振ったチャップリンは、ここでも付け入る隙を与えてしまったのだ。この作品が思想的にも優れた作品であるがために、そこのとはこの作品の評価に小さくはあるが瑕をつけることになってしまったのだ。