街のあかり
2007/9/24
Laitakaupungin Valot
2006年,フィンランド=ドイツ=フランス,78分
- 監督
- アキ・カウリスマキ
- 脚本
- アキ・カウリスマキ
- 撮影
- ティモ・サルミネン
- 音楽
- メルローズ
- 出演
- ヤフネ・フーティアイネン
- マリア・ヤンヴェンヘルミ
- マリア・ヘイスカネン
- イルッカ・コイヴラ
- カティ・オウティネン
警備会社に勤めるコイスティネンは同僚ともあまり付き合わず、孤独な生活を送っていた。そんな彼がコーヒーを飲んでいると、ミルヤという美女が話しかけてくる。彼女に夢中になったコイティネンはデートを重ね、自分の仕事場も見せるが、彼女は実は強盗グループの差し金だった…
アキ・カウリスマキが『浮き雲』『過去のない男』に続く“敗者三部作”の第3作と位置づけたドラマ。いつも通りの淡々とした雰囲気で物語は進む。
重く雲が垂れ込めた灰色の空の下で展開されるアキ・カウリスマキの物語はいつものように暗く孤独である。主人公は警備会社に勤めながら上司とも同僚ともうまくやっていくことができない不器用な男。しかし、彼は警備員で終わるつもりはなく、いつか大物になってやろうという意気込みも持つ。もちろん女性との出会いもなく、触れ合う女性といえば屋台でソーセージを売るアイラくらい。アイラのほうはコイスティネンに好意を持っているようだが、彼のほうは興味を示さない。
そんな彼がひとりの美女と知り合い、彼女に惚れてしまい、見事にはめられて…と続くわけだが、私はどうもこの物語には違和感がある。それは、この作品が“敗者3部作”の1作、しかも完結編に位置づけられていながら、他の2作品とは大きく異なるように見えるからだ。その最大の理由は、この主人公のコイスティネンに「野望」があることだ。前2作の主人公達はどこかで自分が敗者であることに甘んじ、それを多少なりとも愛していた。しかしコイスティネンは自分の敗者としての境遇を恥じ、そこから抜け出すために、(効果は眉唾とはいえ)起業セミナーにまで通うのだ。
カウリスマキの作品の登場する人々は敗者であるけれど、負けるが勝ちとでも言うような敗者の美学があり、それが魅力だった。勝ち負けという価値基準を導入しながら、敗者の肩を持つそのあり方が魅力的だった。しかし、この作品は敗者から勝者にのし上がろうとする主人公が決してそれには成功しないという物語である。最後まで彼は希望は捨てないというが、その先に希望がないことは明らかだ。彼が救われる道は敗者であることを甘んじ、敗者であるがゆえに勝つ道を探ることにしかないということは最初から最後までずっと明らかな事実としてある。
まあ、それが結論と言われればそれまでだが、そのことを言うためにこの作品というのは3部作を1本としてみたときには意味があるが、1本の映画としてはどうだろうかと思う。
カウリスマキ作品の例に漏れず、よくわからないけれどおかしいというユーモアもあり、つまらない作品ではないのだけれど、どうも腑に落ちないところがある。マフィア(?)のボスがポーカーをしている後ろでなぜか掃除機をかけているミルヤとそのボスの関係とか、コイスティネンがミルヤを家に招いたときのぎこちなさとか、そのあたりのおかしな雰囲気がもっとあればもっと何かが湧き出てきたような気もするが、少々退屈してしまう部分もあった。
この作品はチャップリンの『街の灯』へのオマージュであるという。物語の展開はまったく違うが、敗者が敗者へ手を差し伸べるという構造(『街の灯』とは逆に主人公が手を差し伸べられる側ということになるが)は共通していると思う。しかし、この作品ではそのことが前面に押し出されることはない。エゴが強い主人公の存在感がアイラの「思いやり」を背景に押しやってしまっているのだ。『街の灯』でのチャップリンの献身はそれでひとつのドラマとなり、物語の中心をなしたが、この作品ではそうはならなかった。
敢えて深読みをするならば、それは時代の変化の賜物であり、チャップリンの時代のように敗者が敗者に手を差し伸べたとしてもそれで救われることはないということをこの作品は示しているのかもしれない。それを絶望と取るか、まったく別の考え方への契機と取るかは人しだいだが、とりあえずそこに短絡的な希望はない。