マイティ・ハート -愛と絆-
2007/11/23
A Mighty Heart
2007年,アメリカ,108分
- 監督
- マイケル・ウィンターボトム
- 原作
- マリアンヌ・パール
- 脚本
- ジョン・オーロフ
- 撮影
- マルセル・ザイスキンド
- 音楽
- ハリー・エスコット
- モリー・ナイマン
- 出演
- アンジェリーナ・ジョリー
- ダン・ファターマン
- アーチー・パンジャビ
- イルファン・カーン
- ウィル・パットン
共にジャーナリストのダニエルとマリアンヌのパール夫妻は9.11のテロ後にパキスタンに入り取材を続けていた。帰国を控えた日、ダニエルは最後にジラニ師へのインタビューをすることになっていたが、約束の時間になっても帰ってこなかった…
世界を震撼させたダニエル・パール事件をつづったマリアンヌ・パールの原作にブラッド・ピットがほれ込み、自らのプロダクションで映画化した作品。
この映画にはふたつの要素がある。ひとつはマリアンヌの愛の物語としての要素、もうひとつは社会派作品としての要素である。マイケル・ウィンターボトムの前作はテロリストとして捕らえられた若者を描いた『グアンタナモ、僕達が見た真実』だったが、この『マイティ・ハート』でもそのグアンタナモのニュースが流れ、収監者の待遇改善が誘拐犯の要求となるなど、9.11のテロ以降のアメリカとテロリストとの関係をテーマにした連作と捉えることもできる内容になっている。
イスラム過激派のテロリズムはいま世界でもっとも社会的な影響が大きいトピックであり、それを映画化するのは意義深いことだ。そしてさらにそこにムスリムとユダヤの関係、パキスタンとインドの関係などが入り込み事態は複雑になる。あまりにさまざまなことが関係しすぎて容易には解きほぐせないこの問題を、世界的に注目されたひとつの誘拐事件から描いていこうというのは意欲的であり、わかりやすい方法論だと思う。この作品は、複雑に絡み合って奥の見えない藪に懐中電灯の灯りを当てたようなものだ。とても奥までは見通せないが、手前にある枝の絡まり具合から、奥がどのようになっているのかある程度予想はできる。ウィンターボトムはその中でも特にグアンタナモに注目して、そこにアメリカとイスラム過激派との関係がこじれる本質を見ているのだと思う。
そしてもうひとつこの問題の複雑さを象徴しているのがアーチー・パンジャビが演じるアースラである。パキスタンでアメリカの新聞社の仕事をしているインド人である彼女はパイスタントアメリカ、パキスタンとインドというふたつの穏やかではない関係を同時に抱えている。しかもダニエルとマリアンヌが暮らしているのは彼女の家であり、必然的に捜査本部が置かれるのも彼女の家になるのだ。彼女はマリアンヌと信頼関係にありながら、パキスタン人からはインドのスパイと中傷される。ユダヤ人であるダニエルはモサドとつなげられ、アースラはインドとつなげられる。
これはもはやアメリカとパキスタン、あるいはアメリカとイスラム過激派の間だけの問題ではない。さまざまな国や勢力を巻き込んだ巨大な情報戦争なのだ。この作品はその難しさを見事に表現している。
もうひとつの愛の物語としての側面、これは非常にシンプルなものだ。愛する夫を理不尽な暴力によって奪われることへの恐怖と不安、マリアンヌはその恐怖と不安と戦わなければならないのだ。この作品が感動作となるのはこの愛の物語としての側面によってだ。
そしてさらに、その感動を強くするのは、彼女がその感情表現を抑制されざるを得ないという事実だ。この作品には二つの要素があると書いたが、マリアンヌの中にもふたりのマリアンヌがいる。一人は夫を愛する妻であり、もう一人はジャーナリストである。ジャーナリストとしての自分自身がいるために彼女は妻としての自分の感情をすべて吐き出すことはできない。妻としての彼女は感情を爆発させるが、ジャーナリストとしての彼女は非常に冷静で理知的だ。もちろん互いが互いを支えているわけだが、ジャーナリストとしての冷静さがあるがゆえに、感情を押し殺してしまう苦しさが彼女の苦悩をより大きなものとしてしまっているのだ。
ただ、その彼女が本当に感情を爆発させるとき、その感情の奔流は見るものを感動させる。アンジェリーナ・ジョリーはそれを本当によく演じている。彼女はアフリカで子供を生んだ後、アメリカに帰ることなくインドに渡って撮影に望んだという。ほんの少し前まで妊婦だった自分と重ね合わせることで真に迫った演技ができたのかもしれない。
そして、この作品からさらに考えを進めようというときポイントになるのは、パウエル国務長官の記者会見の映像だ。彼は被害者のことを気にかけているようでいながら、テロリストと交渉することは断固として拒否している。
これは国家の政治のレベルからは個人が見えないことの一例だ。個人のレベルでは現実に悲劇が起き、テロリストもテロリストではないパキスタン人も顔を持った人間としてマリアンヌたちの前に姿を見せるが、アメリカ政府にとって彼らは“テロリスト”という顔のない集団に過ぎない。国家レベルの政治におけるテロリストと現実の中で出会うテロリストの間には大きな違いがある。
これを追求していくとどんどん映画から離れていってしまうので、書かないことにするが、この話が行き着く先は個人と政治の乖離という現代社会の問題である。『グアンタナモ…』もその問題を提起した映画だった。この2作品によって9.11後の世界を深く考察するウィンターボトムが次の作品でさらに、この問題へと踏み込んでくれることを期待したい。