すべての些細な事柄
2008/1/30
La Moindre des Choses
1996年,フランス,105分
- 監督
- ニコラ・フィリベール
- 撮影
- カテル・ジアン
- ニコラ・フィリベール
- 音楽
- アンドレ・ジルー
- 出演
- ラ・ボルドのみなさん
鬱蒼とした森の中にある診療所、精神科のクリニックであるラ・ボルド診療所では患者たちによる演劇の準備が進められていた。患者と職員は一緒にセリフを練習し、歌を歌い、楽器の練習をする。
患者も医者も看護人も普段着で過ごすこの診療所でみなで劇を作り上げていく様子を映す。フランスでは半年のロングランとなり、ゴダールにも賞賛されたというドキュメンタリー。
この作品は非常に散漫だ。舞台が精神科のクリニックで、患者たちを中心に何か劇を上演しようとしているというのはわかる。それは患者然とした人が出てきたり、薬が用意されていたりすることからわかるのだが、このクリニックでは患者も医師も看護人もいわゆるコスチュームを着てはおらず、ぱっと見では誰が患者で誰が職員なのかわからない。だから、ここで何が起こっているのか、ということが良くわからないのだ。
それもおそらくこのクリニックの治療の方針なのだろう。患者と思われる人が交換手をしていたり、患者同士が助け合っているのを見ると、その方針も有効なのだろうと思える。このフランスの田舎にあるクリニックはドゥルーズとの共著で知られるフェリックス・ガタリと精神科医のジャン・ウーリーが設立したクリニックであるらしい。柵などの境界のない広い敷地にお城のような建物が建つこのクリニックはファンタジーの世界であるかのような印象も与える。
そして、ここの職員たちの患者に対する態度は温かく、医者/看護人と患者というよりは一緒に暮らす仲間という印象を与える。フィリベールは長編デビュー作となった『パリ・ルーブル美術館の秘密』でルーブルを“村”にたとえたように一種の(仮想的な)共同体を対象として映画を作るのを得意としているようだ。
この作品も精神科のクリニックを舞台としているが、精神病が問題なのではなく、そこにいる人々が主人公であり、精神病という病を抱えていて、社会からは阻害されていても、この共同体の中では一定の役割を与えられ、その一員として生活しているということを描いている。フィリベールはその共同体に入り込み、しかしそこの人々とは微妙な距離感を保ちながら、人々に暖かい視線を注ぐ。そのまなざしが心地よく、観客をひきつけるのだ。
ただ共同体に入り込むがゆえに、その共同体の質によって映画の全体のムードも変わってくる。共同体とはいえ、それぞれが気ままというかばらばらに振舞っているこの診療所を描いたこの作品のムードは散漫なものになる。小さな小学校を描いた『ぼくの好きな先生』は非常に緊密なムードになる。
そのムードを伝えるというのも面白いとは思うのだが、ここまで散漫になってしまうと戸惑いと退屈さがない交ぜの印象になってしまい、映画としてはいまひとつひきつけられないといわざるを得ない。対象となる共同体のムードを伝えながらも、作品としてはしっかりとまとまったものにするというやり方ができたら、この作品も非常にすばらしいものになったのではないかと思う。
このニコラ・フィリベールというドキュメンタリー作家の独特の作り方は面白いとは思う。映画というのは基本的にカメラと観客の視線が同一化されるので、作り手の一人称の語りでない限り、観客の傍観者としての地位を犯さないように慎重に映像が組み立てられるものなのだが、この人の作品ではずっと傍観者として映画を見れていたのに、映っている人たちが急にカメラのほうを見たり、突然フィリベール自身が発言したりして、その均衡を破る。
これは違和感を感じさせるわけだが、この違和感は彼が被写体となる共同体の中に入り込んでいることの表明でもあり、同時に観客を巻き込むための戦略でもあるだろう。それがもっと洗練されていけば、予想もできないほど面白い作品が生まれてくるかもしれない。