マイ・ブルーベリー・ナイツ
2008/3/20
My Blueberry Nights
2007年,香港=中国=フランス,95分
- 監督
- ウォン・カーウァイ
- 原案
- ウォン・カーウァイ
- 脚本
- ローレンス・ブロック
- ウォン・カーウァイ
- 撮影
- ダリウス・コンジ
- 音楽
- ライ・クーダー
- 出演
- ノラ・ジョーンズ
- ジュード・ロウ
- デヴィッド・ストラザーン
- レイチェル・ワイズ
- ナタリー・ポートマン
ニューヨークに暮らすエリザベスは失恋し、恋人の家の鍵をカフェのオーナーに預ける。後日、閉店後のその店にやってきたエリザベスはそのカフェのオーナーであるジェレミーと話し込み、毎日売れ残るというブルーベリー・パイを食べる。ジェレミーはエリザベスに恋心を抱くが、恋人を吹っ切れないエリザベスはニューヨークを後にする…
香港映画の巨匠ウォン・カーウァイが始めて英語作品に挑んだラブ・ストーリー。主演はグラミー賞歌手でこれが映画初出演となるノラ・ジョーンズ、脇をジュード・ロウら豪華キャストが固める。
この映画を見てまず思ったのはウォン・カーウァイはどこへ行ってもウォン・カーウァイだということであり、これはウォン・カーウァイのアメリカでの再出発の作品なのだということだ。
最近のウォン・カーウァイは『花様年華』や『2046』といった90年代の彼から考えると「らしくない」作品を取ってきた。どこがどう違うかを説明するのは難しいのだが、『恋する惑星』や『天使の涙』といった90年代の作品は「スタイリッシュ」という言葉が見事に当てはまる作品で、なおかつどこかユニークなところがあって新しさを感じさせてくれた。しかし、2000年以降の作品(あるいは『ブエノスアイレス』とそのあとの作品)はそれまでとは別のユニークさを求めているようでスタイルよりも芸術性を求めているような感じがした。それはまるでグラフィックデザイナーが画家へと転身を遂げようとしているかのようでどうも居心地が悪いものだったと思うのだ。
しかし、この作品で彼は舞台をアメリカに移し、英語の作品を作ることで90年代の作品に立ち返り、再び自らのスタイルで映画を撮り直したのではないかと思う。彼らしいざらつきとあえてコマを落とした映像、軽快なカッティングのリズム感、疾走するカメラのスピード感といった映像面でのウォン・カーウァイのスタイル、そして登場人物たちがみなどこかずれているという感じ、それはまさに90年代香港の王家衛そのものだ。フェイ・ウォンやトニー・レオン、ミシェル・リーがやっていたことをノラ・ジョーンズやジュード・ロウ、ナタリー・ポートマンがそのままやっているというそんな印象をこの作品から受けた。
それはそれで90年代のウォン・カーウァイを好きな人にはいいのだろうし、そういったスタイルの作品が好きな人にもいいのだろうけれど、いまそのようなスタイルの作品を見ると、ちょっと鼻白い。90年代に新しかったことは今はもはや新しくはなく、当時はものめずらしかったことも今ではすっかり陳腐になってしまっていたりする。
この作品にもそんな感覚に襲われるシーンがいくつもある。もっともわかりやすかったのはジュード・ロウがはじめてノラ・ジョーンズにキスをするシーン、このシーンの「くささ」はなんとも見ているほうが恥ずかしくなる。行為自体も「くさい」のだが、その撮り方がそれに輪をかけて「くさい」。そのあたりがこの作品のスタイリッシュさに古臭い印象を与えてしまっているのだろう。
あとは、ナタリー・ポートマンの役どころというのも微妙なところという気がする、本来はそもそもちょっとずれているふたりの物語にさらにぶっ飛んだキャラクターを投げ込むことでオリジナリティを出すという狙いだったのだろうけれど、結果的にはただかき混ぜただけでラブ・ストリーの主プロットにはあまりかかわりのないエピソードになってしまったように思える。
それで散漫になってしまったせいもあって物語としても尻すぼみだし、なんだかスッキリしなかった。
なんだか、ちっともほめていないような気がするが、決してつまらない作品ではない。ウォン・カーウァイの作品は大して面白くなくても映像と音楽のリズムによって作品の中に入り込めるように作られている。以前の作品の印象やらなにやら余計なことを考えずに映画を見ればそれなりに面白いし、ストレートなラブ・ストーリーを楽しむこともできるだろう。
この作品はアメリカという地で再出発を果たしたウォン・カーウァイが新たな境地を切り開くためのひとつのステップだと私は考えたいと思う。そう考えれば、そんなに悪い作品でもないと思う。