不完全なふたり
2008/5/28
Un Couple Parfait
2005年,フランス=日本,108分
- 監督
- 諏訪敦彦
- 脚本
- 諏訪敦彦
- 撮影
- カロリーヌ・シャンプティエ
- 音楽
- 鈴木治行
- 出演
- ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
- ブリュノ・トデスキーニ
- ナタリー・ブトゥフ
- ジョアンナ・プライス
- ジャック・ドワイヨン
久しぶりにパリにやってきたマリーとニコラはホテルの寝る場所でいさかいを起こし、翌日ニコラは友人に離婚するつもりだと告げる。マリーは友人に慰められるが、ホテルに帰るとそのいらだちは極限に達し、ニコラといさかいを繰り返す。翌日の友人の結婚式には二人そろって出席するが…
諏訪敦彦がオール・パリロケ、全編フランス語で撮った人間ドラマ。離婚を間近に控えた夫婦の心理をリアルに描く。
舞台はフランスに移ったが、夫婦あるいは恋人という閉じられた関係に生じる微妙な真理をリアルに描くというあり方は『M/OTHER』と非常に似通ったものを感じる。この作品のヴァレリア・ブルーニ・テデスキとブリュノ・トデスキーニの戸惑ったような表情は、M/OTHERの三浦友和と渡辺真起子の表情にあまりに似ている。『M/OTHER』の内容はあまり覚えていないのだけれど、アップで捉えた三浦友和の表情だけは妙にはっきりと覚えている。それはこの作品でヴァレリア・ブルーニ・テデスキが見せる表情に似ているのだ。
その表情が生まれるのは、脚本を用意せず場面設定だけを用意して現場でセリフを決めていく諏訪敦彦流の演出手法によるものだ。監督はその場面の登場人物の心理的状況を構築し、役者はその場にふさわしいセリフを考える。それは役者自身の言葉として発せられるし、相手が何を言うかはっきりとはわかっていないという状況がリアルな緊張感を生む。そのような緊張感の中からつむぎ出された言葉にはリアリティがあり、見る人はそこに生活の匂いを感じる。
この作品の場合、マリーが主人公なのだが、そのマリーは主にニコラの視線が捕らえたマリーの姿である。15年も一緒にいながら理解し難い面倒くさい女、どうしてもそんな風に見えてしまう。結婚式から帰ってきたふたりがまたも言い争いをして、ニコラはひとり部屋を出てカフェへとやってくる。そこでニコラは初老の男と話すのだが、その言葉がいい。その初老の男が話すのは戦争のことなのだが、彼が語る“恐怖”と“他者”との関係はマリーが感じている“恐怖”に通じる。しかしニコラの心はすでにマリーにはなく、その言葉は何もない空間に霧消してしまう。
マリーの立場から見ると、この物語は非常に切ない。マリーはニコラとの関係をあきらめたわけではない。しかし相手に何を求めているのかが自分でもはっきりとはわからないのだ。打っても響かない楽器のように、彼女の感情はニコラの心に響かない。そのいらだちが彼女を感情的な行動に向かわせ、それがふたりの間の軋轢を更に強める。
“男と女”と言ってしまうと単純すぎるが、この男と女の間の徹底的なディスコミュニケーションは洋の東西を問わず誰もが突き当たる壁なのだろう。もちろんそのディスコミュニケーションは“男と女”に限らず人間がふたりいればどこでも生じうる。その「通じ合えない」いらだちをマリーは見事に表現し、それが見るものの共感を引き出す。マリーは面倒くさい女だけれど、マリーの気持ちもわかる、そんな複雑な感情を抱かせるところがこの作品のリアリティであり、凄いところだ。
この作品は見終わってももやもやとした感じが残る。映画は基本的に固定カメラで、いろいろと思いをめぐらす“間”がたくさんあるにもかかわらず、最後まで見てももやもやとして結論めいたものは見えてこない。このあたりはいかにもフランス映画らしいという気がする。もちろん日本映画にもこういう作品はあるが、なかなか受け入れられにくい。しかし、これがフランス映画だと日本でも結構受け入れられてしまったりする。その意味では諏訪敦彦がこの作品をフランスで撮ったのは正解だ。
被写体が日本人だとなんだか気恥ずかしいということもあるだろうし、こういうことを語るには口語よりも文語のほうがふさわしいから字幕のほうがピタリと来るというのもあるだろう。諏訪敦彦はなかなかいい居場所を見つけたのかもしれない。