敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~
2008/7/24
Mon Meilleur Ennemi
2007年,フランス,90分
- 監督
- ケヴィン・マクドナルド
- 映像
- ニコラ・ショードゥルジュ
- 音楽
- アレックス・ヘフェス
- 出演
- アンドレ・デュソリエ
- カルロス・ソリア
- クラウス・バルビー
クラウス・バルビーは22歳でナチス親衛隊に入隊、いわゆるゲシュタポとしてドイツ占領下のリヨンでレジスタンスの殲滅の任に当たった。戦後、アメリカ陸軍情報部が反共政策の一環としてナチスの残党を雇うと、バルビーもその一員として工作活動に従事した…
ナチスの残党の戦後の運命を『ラストキング・オブ・スコットランド』のケヴィン・マクドナルドが現代の世界政治を問う社会派ドキュメンタリー。骨太です。
ナチスの残党について描いた映画といえば、アドルフ・アイヒマンについてのドキュメンタリー『スペシャリスト・自覚なき殺戮者』を思い出す。アイヒマンもこの『敵こそ、我が友』の主人公クラウス・バルビーと同様、戦後長きにわたって裁かれることなく外国に逃れていた“戦争犯罪人”である。
しかし、このふたつの作品はまったく違う。『スペシャリスト』がアイヒマンの裁判に注目し、彼の戦争中の行為の意味を問い、その行動の責任がアイヒマン自身にあるのか、それとも命令を下したもっと上の組織にあるのかを問題にする。そして、組織と個人の悪のあり方を描いていた。
この『敵こそ、我が友』はクラウス・バルビーの戦後の行動=活動を描くことで彼が裁かれることなく南米に渡り、ついには政治に関わるようになることを許した国際政治のあり方を問うている。この作品はクラウス・バルビーという個人の人生をモチーフとしながら描いているのは政治そのものなのである。
映画の意図はクラウス・バルビーを断罪し、同時にこのような人物を利用してきた“政治”をも断罪しようというものであろう。特に彼を利用し続けたアメリカに対する非難のまなざしは明白である。しかし果たして、クラウス・バルビーを断罪するということに成功しただろうか。
この作品は多くのレジスタンスを拷問して殺し、44人の子供たちをアウシュビッツに送りながら、安穏ともいえる生活を何十年も送ったこの人物を終始非難の目で見つめる。確かにこの男の所業は断罪に値する。それは映画を見るまでもなく納得できる。しかし、この作品はその当然の結論ありきで論を進め、同時に“政治”に対する批判をした為にその当然の結論がないがしろにされているという印象も生んでしまう。
そのような印象を最も強く与えるのは、チェ・ゲバラとクラウス・バルビーを弁護することになった弁護士の相似である。この作品ではクラウス・バルビーをチェ・ゲバラを死に追いやった黒幕として断罪している。そのエピソードのところでチェ・ゲバラの演説の映像を使い、チェに帝国主義を断罪させている。ナチスドイツと他の帝国主義国を並列に論じさせているのだ。これとまったく同じ議論がバルビーを弁護することになった弁護士からも聞かれる。この弁護士はバルビーの思想に共感しているわけではないという留保がなされてはいるのだが、それでも違和感を感じざるを得ない。
ここに浮かび上がってくるのは、帝国主義の手先としてチェと対立したバルビーがその帝国主義国家によって裁かれるという構造なのだろうが、そのようにして帝国主義国家の矛盾を突くあまり、映画の核心であったはずのバルビーの存在が希薄になってしまうのだ。
バルビーを断罪する意味もわかる、そしてアメリカを中心とする帝国主義を断罪する意味もわかる。しかし、この映画においてはそのふたつはきっちりと両立してはいない。それだけ“政治”というものがつかみ所のないものだということではあるのだろうけれど、それで終わってしまっては雲をつかむような話になってしまう。
このバルビーの話自体は政治の裏側を語るという点で面白いのだから、さらに踏み込むためのきっかけを与えて欲しかった。面白い物語であるからこそ、もっとインパクトのあるメッセージが欲しかったと思うのは贅沢だろうか。