画家と庭師とカンパーニュ
2008/8/1
Dialogue avec mon Jardinier
2007年,フランス,105分
- 監督
- ジャン・ベッケル
- 原作
- アンリ・クエコ
- 脚本
- ジャン・ベッケル
- ジャン・コスモ
- ジャック・モネ
- 撮影
- ジャン=マリー・ドルージュ
- 出演
- ダニエル・オートゥイユ
- ジャン=ピエール・ダルッサン
- ファニー・コタンソン
- アレクシア・バルリエ
- ヒアム・アッバス
生家での田舎生活を送ることに決めた画家が荒れ放題の庭を手入れするために呼んだ庭師は子供のころ机を並べた同級生だった。庭師を信頼し、意気投合していろいろなことを話すようになるが、画家は妻とも別居中でいろいろな問題を抱えていた。
ジャン・ベッケルが『ピエロの赤い鼻』以来4年ぶりに撮ったヒューマンコメディ。心和む一作。
ジャン・ベッケルは巨匠ジャック・ベッケルの息子で、いまひとつ大物になりきれないという気がするが、私はこの人の作品が凄く好きだ。この作品の前に撮ったのは『ピエロの赤い鼻』で、これも非常にいい作品だったが、これに主演し、それ以前のジャン・ベッケル作品にも出演していたジャック・ヴィルレが2005年に急逝、ジャン・ベッケルは作品世界の核となる盟友を失ってしまった。それから2年、ベッケルはジャン=ピエール・ダルッサンの中にこのジャック・ヴィルレに似た才能を見出したのではないか。風貌もおでこの後退具合も含めてどこか似ているし、とぼけた感じもよく似ている。もちろん、ジャン=ピエール・ダルッサンはジャック・ヴィルレの代わりではなく、彼を使ってまた別の作品世界を作り出そうとしているのだろうけれど、ジャン・ベッケルの作風には彼らのようなとぼけた雰囲気の名優がどうしても必要になってくるのではないか。
そんなジャン=ピエール・ダルッサンが事実上の主役であるといえるこの作品、しびれるのはなんといってもその構成の仕方だ。映画の細部をおろそかにせず、その細部が後のシーンと絡み合っていく。犬一匹、じょうろひとつがこの映画の重要な構成要素なのだ。
そして、主役ふたりの心理描写もまた秀逸だ。このふたりは互いに惹かれあいながらも相手を理解することは決して出来ず、しかもその理解できないということを当たり前のことと受け取っている。互いに理解できないがゆえに時にはいらつくこともあるけれど、小学生で分かれて以来、およそ50年も別々の人生を送ってきたわけだから、互い互いを理解できないのは当然のことだ。おじさんというのは往々にして独善的になってその違いを理解せず、自己主張が強くなってしまうのだけれど、このふたりはその独善的な部分を相手にむけることはせず、ぐっとこらえる。
二人がそのような関係に慣れたのは、もちろん共通の思い出もあるだろうが、お互いがどこかで相手にあこがれる部分を持っているからなのだろう。画家は庭師のように家族と静かに暮らすことをどこかで求め、庭師は画家のように創造的な仕事を持つことを求めていた。庭師というのは彼にとってそのように創造的な仕事のひとつであり、その仕事を画家とともにできるということが彼は嬉しいのだ。
しかし彼は、画家を慕うがゆえに、どうしても自分の尺度で物事を見てしまうことも多い。彼が騒ぎ立てる事々は画家にとっては取るに足らないことであり、時にはそれにいらいらすることもあるのだが、その取るに足らないことこそが庭師にとっては大事なのだ。
そのことに画家も気づいて…と書くとどうしても臭くなってしまう。結局はそういうことなのだが、そのように結論を急がず、あるいは結論づけないところがこの作品のいいところであるのだ。結論というのはあくまでも私たちが頭の中で作り出すことであって、この作品で語られていることではない。そういう結論に飛びつかず、この画面に映っているさまざまなものを味わうことこそ映画を観るということであり、人生を味わうということなのだ。
この映画にいったい何が映っていたが、見終わってからじっくり思い出してみるといい。いかに多くのものを私たちが見逃していることか。それはそのまま人生の喜びを見逃しているということかもしれないのだよ。