ブタがいた教室
2008/10/29
2008年,日本,109分
- 監督
- 前田哲
- 原作
- 黒田恭史
- 脚本
- 小林弘利
- 撮影
- 葛西誉仁
- 音楽
- 吉岡聖治
- 出演
- 妻夫木聡
- 大杉漣
- 田畑智子
- 原田美枝子
6年生の新学期、担任の星先生がコブタをつれてくる。先生はブタを育ててみんなで食べようと提案する。子供たちもかわいいコブタにPちゃんと名前をつけ一生懸命かわいがるが、育ったPちゃんを食べる期限が迫ってくる…
1990年に大阪の新任教師が実際に行った「いのちの授業」モチーフに作られた感動ドラマ。
映画としてはごく普通の出来だけれど、物語としては素晴らしい。先生に連れてこられたコブタを「かわいいかわいい」といって飼い始める子供たち。餌になる大量の残飯を集める苦労も、臭い糞を集めて捨てる苦労も、かわいいPちゃんのためには厭わない。それは生き物との接し方を学ぶ機会である。動物を生かすためにしなければならないこと、それを身をもって学ぶのだ。子供というのは自分勝手な生き物だけれど、愛情を注ぐ相手がいれば注ぐし、そこから多くのことを学ぶ。この子供たちはPちゃんを育てることで本当に多くのことを学んだわけだ。
しかし、本番はこれから。1年近くPちゃんを育て、いよいよ卒業というとき、子供たちは「Pちゃんを食べるかどうか」という難問にぶつかる。「Pちゃんは食べたくないけれど、そのままほったらかすのは無責任だ」「他のブタは食べられるけど、Pちゃんは食べられない」。Pちゃんを食べるか食べないか、そのことを考えることが本当にさまざまな“学び”の出発点となるのだ。
この作品は、廃校を借りて、子供たちとキャスト、スタッフで実際にブタを育てたということらしい。だからだろうか、Pちゃんを食べるかどうかということを話し合う子供たちの言葉や表情が本当に真に迫っていて素晴らしい。大杉漣演じた教頭なんかはステレオタイプすぎて必要だったのかなぁという疑問もあるが、あくまで主役は子供たちで、その子供たちが素晴らしいからそれでいいのだと思う。
生き物を食べることが「いのちをいただく」ことであるという事実、それは子供たちのみならず現代を生きる私たちのほとんどが日常では感じることのないことだ。小魚ならいざ知らず、大きな魚や肉については、その元の姿を目にすることはほとんどない。いくら理屈ではわかっていても、毎日食べている肉が生きている動物から来たものだという実感はほとんどない。それは、生き物が食べ物になるその過程が目に見えないブラックボックスとして存在している社会に私たちが育ってきたからに相違ない。フレデリック・ワイズマンの傑作『肉』はそのブラックボックスの中を審らかにした作品であった。
さすがに動物をさばく現場を見せることはできないけれど、そのブラックボックスの中を身をもって体験できたことは子供たちにとって非常に重要なことだ。私たちだって本当は日々の生活の中でそのことをもっと考えなければならない。肉を肉としてではなく“生き物のかけら”として考える瞬間が日常の中にもっとあってもいいはずだ。
ただ「名前をつけたペット」を食べるというのはあまりに残酷だという見方にも一理あると思う。私たちが生き物を食べられるのは、それが食べるためのものとして育てられたからという一面も大いにある。養豚家だってペットにブタを飼っていたらそれはおそらく食べない。もちろん、このPちゃんだって食べるために飼い始めたわけだけれど、子供たちにとってはペットなのだ。
しかし、Pちゃんを食べると考え、その残酷さを直視することで食べ物のありがたさを実感できることは間違いない。だから実際にPちゃんを食べなくても、食べるかどうかを懸命に考えた時点で子供たちは十分に学んでいるのだ。その先の結論というのは、ある問題について集団の中で結論を出すという課程を学ぶという別の学びであるのだと思う。
Pちゃんを食べるかどうかというテーマだけにとどまるのではなく、もう一段段階を進めたところにこの授業の素晴らしさがある。この段階によって子供たちも、そして主人公となった先生も成長する。だから、大人でも子供でもこの映画から学ぶことができる。子供のころ受けることができなかったこの素晴らしい授業を映画で体験できるというのは素敵なことだ。