愛おしき隣人
2008/12/10
Du Levande
2007年,スウェーデン=ドイツ=フランス=デンマーク=ノルウェー,94分
- 監督
- ロイ・アンダーソン
- 脚本
- ロイ・アンダーソン
- 撮影
- グスタフ・ダニエルソン
- 音楽
- ベニー・アンダーソン
- 出演
- ジェシカ・ルンドベリ
- エリック・ベックマン
- エリザベート・ヘランダー
- ビヨルン・エングルンド
電車の音で目を覚まし悪夢を見たという男、公園のベンチで男に「もういって」といって絶望を語り続ける女、部屋でチューバの練習をする男、ラストオーダーを鐘で告げる酒場、などなど北欧のとある町に暮らす人々の生活を短いエピソードでつないでゆく。
監督は『散歩する惑星』がカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞し注目を集めたロイ・アンーダソン。奇抜なイメージの連続が夢と現実との境界があやふやな空間に観客を誘う。
映画の始まりは電車の音を聞いて目を覚ました中年の男が「爆撃機の夢を見た」とカメラに向かって語るシーン。これだけを取ってみればさもあり何という感じだが、映画全編を見てから振り返ってみると、この最初の短いエピソードが現実と夢とのつながりを示唆していたと感じる。
それに続くエピソードは、公園のベンチに中年にさしかかろうというカップルが腰掛け、女のほうが「誰にも理解されてない」と嘆き、男と犬に「もうどっかに行って」と言うというものだ。しかし女は男が「オーブンをつけっぱなしだ」というとその中身を聞き、「やっぱり帰るかもしれない」と告げる。
この男女はまもなく酒場のシーンにも現れ、女がアル中だということがほのめかされる。常に酩酊しているアル中の人間の日常は果たして夢と現実のどちらなのか。
この女に加えてもうひとりの中心となるのが、この酒場にいた若い女性。同じ店にいたバンドのボーカルに恋している彼女はその男を求める存在として何度か登場する。そして彼女の幻想はいつしか夢という形で彼女にもとに訪れる。彼女はそれが夢だとわかっているのだが、その夢の中で感じた幸福感にいつまでも浸るのだ。
別の男も夢の話をする。知らない人の家で会食に参加して、そこで食器を壊して逮捕され、電気椅子に送られてしまう夢。彼はこの夢を車の窓からカメラに向かって語る。
これらの断片はもやもやとしているがどこかで共通点がありそうなメッセージを放つ。
そして、もうひとつ共通しているのはそれぞれのシーンが無機質な風景の中にいる(たくさんの)人を描いているという点だ。その無機質な風景はどこか夢のようである。
「夢のよう」というとき、私たちはそれを現実からかけ離れたという意味で使う。この無機質な風景(つまり白い壁ばかりで装飾が何もなかったり、奥行きが感じられなかったりする風景)が夢のようであるというのは現実が実にごちゃごちゃしていて、普段は気にしないが余計なものがたくさんあるということを意味しているのだろう。
そして同時に、そのごちゃごちゃしたものが「これは現実である」という安心感を与えているようにも思う。のっぺりとした無機質な空間というのは「夢のよう」で、私たちに不安感を与えるのだ。
そんなことを考えていたら、ついこの間展覧会に行ったヴィルヘルム・ハンマースホイのことを思い出した。彼の晩年の絵の多くは自宅の装飾のない空間に妻の後姿だけを描いたり、あるいは無人の部屋を描いたりしている。しかもその絵には何かが欠けていることが多い。椅子の足やドアのノブ、そういった何気ないちょっとしたものが欠けている。それだけでその絵はどこか不気味さというか不安定さを抱え、見るものを不安な気持ちにさせるのだ。
この映画の映像とハンマースホイの絵が似ているというわけではない。系統としては似ているけれど映像としてはそんなに似ていない。しかし、夢のようなところとなんとなく感じる不安感、この二つが共通し、夢の世界への距離の近さが似ているように思えたというわけだ。
ハンマースホイはデンマーク人、この映画はスウェーデン、北欧の白い世界には人を夢へと近づける何かがあるのだろうか。
もやもやとして不安な夢の世界、そこを訪れる旅から感じるのはいったいなんだろう?
現実に存在するが無意識の奥に押し込めている不安が意識に上ってこようとしているのかもしれない、とふと思った。