タクシデルミア ある剥製師の遺言
2008/12/13
Taxidermia
2006年,ハンガリー=オーストリア=フランス,98分
- 監督
- パールフィ・ジョルジ
- 原作
- パルティ・ナジ・ラヨシュ
- 脚本
- ルットカイ・ジョーフィア
- パールフィ・ジョルジ
- 撮影
- ポハールノク・ゲルゲイ
- 音楽
- アモン・トビン
- 出演
- ツェネ・チャバ
- トローチャーニ・ゲルゲイ
- マルク・ビシュショフ
- コッパーニ・ゾルターン
- シュタンツェル・アデール
第二次大戦中のハンガリー、中尉の身の回りの世話をする兵卒のモロジュゴバーニは中尉の妻と娘の裸をのぞき見、性の妄想に浸っていたが… やがて共産主義の時代となり、中尉の息子カールマーンは大食い選手としてハンガリーを代表して戦うようになる…
デビュー作『ハックル』で注目を集めたパールフィ・ジョルジ監督の第2作。グロテスクさが際立ち、きわものの印象が強いが…
最初のエピソードの主人公モロジュゴバーニは上官の娘をのぞき見、ろうそくの炎と戯れ、自慰にふける“変態”という設定。兵卒といいながら上官の召使のようなもので雑用をしながら性欲をもてあましているようなものだ。そして、宴会が行われるためにブタが絞められた夜、ブタの死骸とともに寝るモロジュゴバーニのところに中尉の妻が訪れる。妄想か現実かわからないその性交のあくる朝、モロジュゴバーニは中尉に射殺され、まもなく中尉の妻はブタの尻尾を持つ子供を生む。
話はそれるが「ブタの尻尾を持つ子供」といえば思い出されるのはノーベル賞作家ガルシア=マルケスの「百年の孤独」だ。この壮大な叙事詩では血縁関係にあるもの同士の結婚の末「ブタの尻尾を持つ子供」が生まれると予言され、その通りのことが起きるのだ。
この『タクシデルミア』ではブタの尻尾は近親相姦の暗喩ではないが、姦淫の結果である。「ブタの尻尾」というのはどこかで神による罰とつながっているのだろう。尻尾というのは獣と悪魔に通じるものなわけだし。
まあ、それはともかくそうして生まれた子供カールマーンは大食いの選手になる。この大食いというのが日本人が想像するものとは大違い。とにかくデブな男たちが食べ物を詰め込み続けるというだけで、食べたあとにはみんなで嘔吐し続ける。このシーンだけでも目を背けたくなるものだが、この作品はそんなシーンであふれているのだ。
これらの目を背けたくなるシーンから想起されるのは「七つの大罪」だろう。モロジュゴバーニの色欲、中尉の傲慢、カールマーンの大食。このグロテスクなシーンとはつまり人の欲望がむき出しになったシーンなのである。人間の欲望とはグロテスクなものであり、文明はそれを押し隠すことによって“洗練”されてきた。などと書いてもこれらのシーンから目を背けたくなることに変わりはないのだが。
そして、そのカールマーンの息子としていよいよタイトルともなっている剥製師が生まれるわけだが、彼のエピソードは非常に短い。しかし、その不気味さは他のふたりに引けをとらない。そして、彼もまたある種の欲望に取り付かれているわけだ。そしてその欲望が衝撃的な結末を用意する。
私はこの作品を嫌いではない。人間誰もが心の奥底に持つどろどろとしたものがグロテスクな形で湧出したさまをリアルに描く。表面的にはきわものでリアリティを欠いているかに見えるが、それは観る側の私たちが自分とここに登場する人々を同一視することを拒否するからだ。しかし実際その違いというのは程度の差でしかなく、彼らの欲望は私たちの欲望でもある。
しかし『ハックル』で非常に洗練されたかたちで映像を使ったこの監督としては安易にグロテスクさに寄り過ぎたという感は否めない。心のうちの欲望を目に見えるグロテスクさというかたちではなく、目に見えないまましかし感覚的に感じられるかたちで表現して欲しかったし、それを出来る才能があるのではないかと期待できるからだ。
もしこのパールフィ・ジョルジが本当に偉大な映画作家のひとりになったとしたら、この作品もさまざまな解釈がなされて再評価されるだろう。でも、まだ“気鋭”といわれる作家の作品としては及第点をあげることは出来ない。
映画なんてものは映画そのものだけで評価することは不可能だなと改めて思う。