ファニーゲーム U.S.A.
2008/12/18
Funny Games U.S.
2007年,アメリカ,111分
- 監督
- ミヒャエル・ハネケ
- 脚本
- ミヒャエル・ハネケ
- 撮影
- ダリウス・コンジ
- 出演
- ナオミ・ワッツ
- ティム・ロス
- マイケル・ピット
- ブラディ・コーベット
- デヴォン・ギアハート
ジョージとアンとジョージJrのファーバー一家は夏休みを過ごすためサマーハウスを訪れた。すると早速、挨拶を交わした隣の家から見覚えのない若者が卵をもらいに来る。アンは快く卵を上げるが、若者はそれをすぐに割ってしまい、代わりをくれといってくるのだが…
オーストリアの鬼才ミヒャエル・ハネケが自作『ファニー・ゲーム』をハリウッドでリメイク。カット割りもセリフも一切変更しないことで、衝撃作をそのまま復活させた。
オリジナルとの違いは舞台がアメリカになり、セリフが英語になり、出演者が変わっただけ。後はセリフも、映像も音楽もすべて同じである。だから、どちらも字幕で見る日本人にとってはほとんど違いはないといって言い。もっとも大きな違いは、ナオミ・ワッツやティム・ロスといった名前も顔も知れた役者が出ているというだけだ。
つまり、オリジナルを見た人にとっては基本的には「もう一回見る」に過ぎない。私もオリジナルを思い出しながら、違い見出そうと試みながら見たのだが、正確ではない数年前の記憶と比較しても意味がないことにすぐ気づき、同じ作品を見直しているんだと考えてみることにした。そして見終わってみても印象に違いはほとんどない。若者役の2人がオリジナルのほうがやや“怖い”という印象があったくらいのものだ。
オリジナルを見たことがない人にとってはまったく新しい映画なわけだから、特にこれがリメイクであることを言う必要もない。
完全なるコピーを作ったミヒャエル・ハネケに敬意を表して私もまずは前作のレビューを完全に引用しておく。
突然、理由もわからず暴力を振るわれる、例えば通り魔のような存在に出会ったとき人はどう反応するだろうか? まず「なんで?」という疑問を覚え、それから憤慨する。何か理由があるのなら、その理由を取り除くなりなんなりすることで暴力から逃れられるか、少なくともそれに対処する方法を考えることが出来る。しかし、その理由がまったく見当たらないとき、人はそれにどう反応すればいいのか。
この作品は、そのような状況に置かれた人の心理を見事に描いている。隣家の友人だと思っていた2人の若者が、突然暴力をふるい、最終的には皆殺しにするつもりだと言い出す。それを観ている観客は、その被害者となったショーバー一家の人々と同じく、その理由を捜し求める。「なぜ、なぜ、なぜ?」と。しかし、その理由は決して見つからない。なぜなら理由などないからだ。
この2人がそのように暴力を振るう理由は、ただただ暴力を振るうということである。それに怯える姿を見たいのか、それとも人を打ちのめすこと自体が快感なのか、あるいは他に理由があるのかはわからないが、ともかく彼らはとにかく暴力を振るうことだけが目的で暴力を振るうのだ。
つまりここで描かれているのは純然たる暴力なのである。何かの報復とか、因果関係の中で振るわれる暴力ではなく、単なる暴力なのだ。暴力というものは時には正当化されうる。現在でも正当防衛としての暴力は許されるし、昔なら決闘や仇討は許容される暴力であった。そのように許容される暴力が存在することは暴力が本来持つ理不尽さや醜さをときに隠蔽する。暴力を振るうものがその暴力が正当化されることによってヒーローたりえ、その目的によって戦争が正当化されもするのだ。
しかし、暴力と言うのはそれが正当化されていようといまいと理不尽で醜いものであるのだ。この作品はそのことをじっくりと時間をかけて私たちに語りかけてくる。観客はこの作品を見ながらいつかはきっと救いが訪れるという希望を持ち続ける。逃げることができるか、助けが来るかして、暴力から逃れられるのだと。だが、その希望というのは圧倒的な暴力に対してあまりにも無力である。
この作品は非常に後味が悪い。なぜこんな作品を作るのかと憤慨したくもなる。しかし、このようにして暴力の前で私たちがいかに無力であるかを描くことで、暴力の理不尽さとむごたらしさが際立つのである。ここに描かれた暴力も、正当化された暴力も本質的な部分では変わらない。そのことを考えたとき、この作品よりも、ヒーローが悪人たちをバッタバッタと倒して行く作品のほうがどれだけ恐ろしく、後味が悪いものなのかと思い至るのだ。
そして、それは現実においてはより切実だ。通り魔、テロ、戦争、それらの暴力に直面してしまう人々の多くは因果関係の埒外において殺されている。それがいかに恐ろしいことか、そのことを考えると、本当に背筋も凍る思いがする。
手前味噌になるが、悪くないレビューだと思う。付け加えることはあまりないのだが、書くとすれば、この作品の中で使われる手法についてだ。それは映画の登場人物である2人の若者(というよりはリーダー格のポール)が時折カメラ(つまり観客)に向かって直接語りかけてくるという点だ。
この手法は珍しいものではないが、唐突に語りかけられると一瞬びっくりする。彼は私たちと共犯関係を築こうとして語りかけるのだ。私たちは基本的には被害者の側に感情移入しながら作品を見ることになるのだが、この語りかけによって唐突に加害者側に加担させられるのだ。
それによって見えてくるのは、見ている人各々が心の中に抱える
暴力性、直接の肉体的な暴力だけではなく、何かを破壊したいとか
何かを奪いたいという欲求である。
この手法により観客は映画の中で起こっている出来事により深くコミットすることが出来る。それは本当に嫌な気分になる体験だ。そして、それが嫌な気分になる理由は“彼ら”ではなく私たち自身にあるのだ。それは自分自身の嫌な部分を突きつけられるからであるが、それは同時に自分自身の暴力性を嫌悪しているという意味で健康な反応なのだと思う。
しかしすごいな、ミヒャエル・ハネケは。