バス174
2009/2/19
Onibus 174
2002年,ブラジル,119分
- 監督
- ジョゼ・バジーリャ
- 撮影
- セーザル・モラエス
- マルセロ・グル
- 出演
- ドキュメンタリー
2000年にリオ・デジャネイロで起きたバスジャック事件、20歳の青年が11人の乗客を人質にバスに立てこもった。そこにはすぐに警察と報道陣が詰め掛け、事件は全国に生中継されることとなった。犯人は銃を片手に人質を脅すが、明確な要求を出そうとはしない。
事件当時の映像と関係者のインタビューによって構成されたドキュメンタリー。ブラジル社会の問題点がさまざまな方向から語られる。
取り上げられる事件はごく単純なものだ。バスで強盗をしようとした20歳の男が失敗し、事件はバスジャックに発展してしまう。犯人は銃を片手に11人の人質を取り、警官と対峙する。報道規制のないまま事件は生中継され、みながTVの前で見守ることになる。
この事件自体はあまり面白くなく、この映画はその事件を伝えることを目的としたものでもない。この映画が伝えるのはこの事件を起こしたサンドロの元ストリートチャイルドという境遇が意味するものである。
このサンドロは幼いころに目の前で母親を殺され、ストリートチャイルドになった。ブラジルにおけるストリートチャイルドの境遇の悲惨さはすでに世界の知るところとなっているが、彼の半生にスポットを当てることで、この映画はその悲惨さをより精査に見せる。ストリートチャイルドであるというだけで暴行され、時には殺される子供たち。更正施設に入れられても更正のための措置があるわけではなく、ただ閉じ込められているだけ。大人になって刑務所に入ってもそれは変わらない。変わらないどころか状況はもっとひどくなり、刑務所に入りたくないがために人々は警察から逃げ回る。それがあらゆる犯罪を難しいものにし、警察の質の低さもそれを助長する。賄賂の横行、訓練や装備の不足、それが悪循環を呼ぶのだ。
この作品が語るのは大まかに言ってそういうこと、事件を通して社会に訴えかけるというジャーナリズムを拡大したものである。
しかし、このジャーナリズムというのがまた問題を複雑にしている面もある。なぜなら、“見えない”存在であるストリートチルドレンはたとえ犯罪者として出会ってもTVに映り存在を知られることに意味を見出してしまう。そしてジャーナリズムもそれを利用しようとする。そんなエピソードは『シティ・オブ・ゴッド』にもあった。ギャングのリーダーであるリトル・ゼが新聞に写真が載ったことを喜び、主人公にさらに写真を載せるように命じるのだ。
つまり、この事件はある種の社会的な犯罪なのである。だから犯人は警察に要求を突きつけることがない。彼は何かを求めているわけではなく、犯人としてスポットライトを浴び続けることを求めているのだ。
そしてそれはこの国全体が犯罪に対して感覚が麻痺していることに大きな原因があると思う。非常に印象的だったのは人質のひとりになった若い女性が、「強盗だからすぐに終わると思った」とったところだ。彼女は犯人が現れたときバイトに遅れるという連絡をしたというのだ。その感覚が日本人にしてみればまったくわからない。そして人質達は一様にして冷静でもある。犯人の凶暴さを見極め、どのような行動をとるのが適切かを判断する。
果たしてそのような社会をどう考えればいいのか。平和ボケした私たちからすればまったく異常に見えるが、彼らはそれになれてしまっている。それを変えるにはどうすればいいのか、そもそもどう変えていいのか彼らはビジョンを持っているのか。作中にはストリートチルドレンのために働くソーシャルワーカーなども登場するが、誰も未来のビジョンを示すことは出来ない。だからこの作品は非常に絶望的で重苦しい。
事実を伝えるという意味では優れた報道であると思うが、だから何なんだといいたい。事件を外側から分析しただけであるこの作品にどのような意味を見出せばいいというのか。
この重苦しい作品を見て私が思ったのは、この作品はあくまでも報道であるということであり、同時に報道というものに対するさまざまな疑問も浮かんだ。果たして報道というのはその報道した対象とどう関わるべきなのか。この作品は最初の鳥瞰映像(それ自体はリオ・デジャネイロの構造を示してくれて有用なのだが)のように、超然的な視線で全体を眺めているだけで、扱っている問題にコミットして行こうとはしない。しかし報道した時点で報道した者はその対象にコミットしてしまっているはずだ。そのうえでその対象を突き放してしまっていいものなのか。これは報道の客観性という問題にも関わる難しい問題ではあるが、どうにも引っかかる。自分でもどう考えていいのかわからないが、この作品のあり方は何かが違うような気がする。その“何か”が何なのかは私にはまだわからない。