名もなく貧しく美しく
2003/4/13
1961年,日本,130分
- 監督
- 松山善三
- 脚本
- 松山善三
- 撮影
- 玉井正夫
- 音楽
- 林光
- 出演
- 小林桂樹
- 高峰秀子
- 原泉
- 草笛光子
- 沼田曜一
- 藤原釜足
- 加山雄三
第二次大戦末期、寺に嫁に来た聾の秋子は空襲で孤児となった子供を拾ってくるが、寺では厄介者にされ、終戦後秋子が夫とともに買出しに行っている間に施設に預けられてしまう。そしてまもなく夫が病気でなくなると、秋子は寺から追い出され、実家に身を寄せることに。そこでも兄弟から邪魔者のように扱われるが、聾唖学校の同窓会でであった片山と親しくなり、やがて結婚を申し込まれ…
脚本家として名作を生み出してきた松山善三の初監督作品。涙なしには見れない日本人好みの感動もので、薄幸のヒロインを演じさせたら日本一の高峰秀子がすばらしい。67年には続編も作られた。
たいした映画ではないような気もします。しかし、心の琴線には触れる。戦後60年がたった今見てもそうなのだから、戦争の記憶がまだ生々しい60年代初めにはなおさらのことでしょう。きっとこの映画がかかった映画館ではハンケチで涙を拭いながら席を達人が後を絶たなかったことでしょう。そんなとても感動的な作品です。こういう作品は映画としてどうこうという以前にいい話だということが来てしまうので、自分の心のおののきに素直になって、いい映画だったという感想を書いておきます。
さて、そんなことを言っていても、レビューでもなんでもないので、少々冷静になって考えて見ます。まずこの映画は聾唖者の映画で、手話が多用されるのですが、そこに字幕がつく。まあ、それは別に珍しいことでもないんですが、秋子が片山と二人であう最初のシークエンスで、ロングで構えたカメラの遠くのほうで二人が手話で話していて、そこに字幕がついているんだけれど、そのカメラの前を列車が通過して二人が見えなくなってしまう。にもかかわらず字幕だけは引き続き出てきて会話が見えてしまう。これはかなり不思議です。ここ以外でも見えない手話についた字幕という場面が2箇所くらいありました。これはカメラの視点に立っていると思っている観客を大きく裏切る場面です。この場面に限らず、この映画はあまりリアルであるということにこだわらない。リアルであるよりも内容を観客に伝えるほうが大事だと考えている風があります。
それにしても、列車が通ってしまったのか、わざわざ通るタイミングを選んだのかはわかりませんが、あえてそのようなシーンを使ったのはなぜなのか? その謎は私にはちっとも解けません。見えなくなるだけならわかるけど、字幕がはいって見えないはずのものが見えるというのはねぇ…
まあ、しかしこれは映画がずさんに作られているということを意味しているわけではありません。むしろ大部分のシーンは、非常にうまく作られている。美しい構図やら面白い映像があるわけではないですが、高峰秀子と小林桂樹の表情を描写の中心に持ってきて、ほかがそれを邪魔しないように作る。そのさりげなさはなかなかうまいものがあるのではないでしょうか。1ヶ所、最後のほうだったと思いますが、高峰秀子が画面を横切るただそれだけのシーンに、はっとする美しさがあったのが記憶に残っています。
それにしてもやはりすごいのはメロドラマ性、とにかくあらゆる舞台装置が観客を感動させるほうに動く。秋子を理解せず、好き放題する兄弟、ひとり秋子の味方になる母親、戦争、生と死、聾唖者ゆえの差別、子供、などなど、どこを切ってもメロドラマ、涙涙涙ですよ。『アイ・アム・サム』までは行きませんがかなり高レベルのお涙映画でした。和風な涙(何じゃそりゃ?)を流したいなと思ったら、この映画を探しましょう。
シリーズ
第1作 『名もなく貧しく美しく』
第2作 『続・名もなく貧しく美しく 父と子』