カンパニー・マン
2004/7/10
Cypher
2002年,アメリカ,95分
- 監督
- ヴィンチェンゾ・ナタリ
- 脚本
- ブライアン・キング
- 撮影
- バート・キッシュ
- 音楽
- マイケル・アンドリュース
- 出演
- ジェレミー・ノーサム
- ルーシー・リュー
- ナイジェル・ベネット
- ティモシー・ウェッバー
- デヴィッド・ヒューレット
企業スパイに採用されたモーガン・サリバンはジャック・サーズビーという名を与えられ遠方の会議に出席し、その様子をスパイさせられる。しかし、2度ほど会議に出席した頃から、謎の頭痛と記憶の空白に襲われるようになった。その頃、ある会議の席で知り合ったリタ・フォスターという女性が現れ…
『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリによる企業間の陰謀を巡るサスペンス。舞台は近未来で、『CUBE』と同様にSF色が強い。
舞台は企業間の競争が激化した近未来に設定されている。この映画の大きなテーマのひとつは「洗脳」である。洗脳が実際に可能であることはオウム事件によって明らかになってしまったが、この映画ではそれをSF的リアルさで描いている。「洗脳」までは行かなくとも、現代われわれは生活の中で否応なくマインド・コントロールされていることを実感してしまっている。それは特にマスメディアによるものだが、メディアの技術の多様化によってその危惧が高まっているもいるのだ。
そう考えると、この映画は限りないリアリティを持ってわれわれに迫ってくる。脳の神経ニューロンレベルでの分析が可能なら、実際に洗脳することは可能だろうと思えてしまう。
この映画が捉えるのはそのように洗脳されることで落ち込んでいく「記憶の迷宮」である。前作の『CUBE』では文字通りの迷宮を描いたわけだが、今回はそれを主人公モーガン・サリバンの頭の中に置き換えた。自分が自分であるための出口を求めて、自分の頭の中をさまよう。自分の記憶を頼ることが出来なくなるというのは、想像を絶する心細さだろうと思う。
あとは、やはり映像がいい。余計なものを排されたミニマルなデザインは必ずしも低予算だからという理由ばかりではないだろう。そのシンプルさは冷たさや心細さをあらわし、主人公の不安を端的に表す。他方で、細部にこだわりを見せる面もある。特にSF的な小道具のリアリティにはこだわっているようで、そのあたりはなかなか面白い。
主役のジェレミー・ノーサムもなかなかいい。これまでは主に脇役でいろいろな映画に出ていたが、無表情さや余計な「色」がついていない感じがこの映画にピタリとはまっている。
ということで、この映画は前作に続いてカフカ的な面白さを見せるわけだが、やりすぎという感じもある。まず、企業間のスパイという問題に絡んで、様々な登場人物がそれぞれの立場からそれぞれに物語を語りかける。スパイ合戦とはつまりだましあいだから、そのだましあいの中で自分に有利な作り話をするということだが、次々と新しい人物が出てきて、「自分を信用しろ」というので、話がややこしすぎてわからなくなってきてしまうのだ。
しかし、そのように混乱させることこそが、この映画の狙いなのだろう。混乱した観客はラストにすっきりとした解決を求める。そして、その解決は与えられる。
が、その解決があまりにあっけなく「何じゃそりゃ」と思わせる節もある。「そんな終わり方かよ!」といいたくもなる。しかし、よく考えてみると、果たして本当にそれで終わりなのだろうか。本当に彼は迷宮から抜け出したのだろうか。この映画が本当に迷宮の終わりなのだろうか、という『CUBE』と同じ疑問がこの映画にも残るのだ。それがこの映画の本当にすごいところだという気もするし、ナタリ監督のいやらしいところでもあると思う。
この監督は『CUBE2』の監督を断ったというだけあって、かなりのこだわりを持って、インディーズで有り続けている監督であると思う。低予算でB級映画を撮っている限り子の面白さは失われることはないだろう。ハリウッドの勢いに飲まれることなく、B級映画界の巨匠、そして現代のカフカと呼ばれるような監督になってほしいと思ったりする。