恋愛日記
2005/4/10
L'Homme Qui Aimait Les Femmes
1977年,フランス,118分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- ミシェル・フェルモー
- シュザンヌ・シフマン
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 音楽
- モーリス・ジョーベール
- 出演
- シャルル・デネ
- ブリジット・フォッセー
- ナタリー・バイ
- ジュヌヴィエーヴ・フォンターネ
- レスリー・キャロン
- ネリー・ボルゴー
女たちだけの葬列が見送る奇妙な葬式、運ばれていくベルトランは女性の脚線美に魅入られ、次々と女と関係を持った“女たらし”。そんなベルトランが自分の女性遍歴を記録して本にしようと考える…
とにかく次から次へと女を好きになってしまうという男の話。見た目が情けない感じのところがいかにもトリュフォーらしい。
結局のところ、女ったらしの男の話に過ぎず、あまり面白くはない。ベルトランが足を見ただけの女を見つけるために、その女が乗っていた車のナンバーを書きとめ、その女の身元を調べるために自分の車を壁にぶつけて、保険会社に連絡するなんていう異常なほどの執着心を見ると、それはそれで面白いのだけれど、それはただ単にそのようにして女と寝ることに彼が情熱を燃やしているという以上のことではない。
この映画で面白いと思うのは、このベルトランが自分の手記を出版社に送ったところ、それを賞賛するのが女性の編集者であるということだ。男性の編集者は、うぬぼれが強いとかいろいろな理由をつけて彼の文章をこき下ろす。そこに垣間見えるのは男たちのベルトランに対する羨望と軽蔑である。たくさんの女と関係を持つということに対する羨望と、そのようなことに執心して多くの時間とお金を割いていることに対する軽蔑、そのふたつの気持ちから男性は彼を受け入れることが出来ない。
そして、もしかしたら私も、それだからこそ彼の話が今ひとつ面白く感じられないのかもしれない。と考えてみると、この映画はなかなか面白い様相を呈してくるように思える。まず重要になってくるのは母親との関係だ。奔放で恋人を次々と変え、彼に平気で恋文を投函させるような母親、その母親の存在と彼の中年期での女狂いを結びつけることは可能だ。
そして、この母とのエピソード、そして脚フェチという点を取ると、この物語は実は多分にトリュフォーの自伝的な物語と言える部分がある。それは『大人は判ってくれない』でアントワーヌの母親がアントワーヌの前でその美しい脚をあらわにしてストッキングを履くシーンを思い出させる。この映画でベルトランの欲望を喚起するひとつの要素となっているストッキングの衣擦れの音というのも、トリュフォーのストッキングに対する執着の反復である。このベルトランは「ストッキングを買いに行く男」(『ピアニストを撃て』など)ではないが、ある意味ではその段階を乗り越えた脚フェチのカリスマとでも言うべき存在なのかもしれない。
それはつまり、彼がトリュフォーにとっても羨望と軽蔑の対象であったということを意味する。トリュフォー自身が脚フェチだったかどうかはわからないが、彼にとって女性の脚というのが性的な記号として非常に大きな意味を持っていたことは明らかだ。そのトリュフォーが描いた脚フェチの物語となれば、映画自体は今ひとつ面白くなくても、非常に興味深い。
トリュフォーの映画を見ると、それは純然たる作品としての表現である以前に、トリュフォー自身の心の叫びであるかのような印象を受ける。トリュフォーという人物についてよく知っているわけではないけれど、いくつも作品を観て行くことでそれらから共通して聞こえてくる叫びのようなものが見えてくるのだ。それはトリュフォー自身の人生から出てくる叫びであり、彼は映画を作ることで、そのようにして世間に対して心の叫びを投げかけることで、生き延びているかのようなイメージが観る側の心にわいてくるのだ。
この映画の最初と最後にある葬儀も、どこかトリュフォーが自分自身の葬儀を空想して作られたシーンであるような気がしてしまう。その印象は漠としていて、確たる根拠はないのだが、トリュフォーの映画で描かれた主人公たちの相対としてトリュフォーが自分自身の像を描いているとするのなら、彼は自分の葬儀がこの映画のように行われることを望んだのではないかと思うのだ。トリュフォーの映画はすべてある意味では自伝である。この映画を観ながら、漠然とそんな思いが頭をよぎった。