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鬼火

2005/8/16
Le Feu Follet
1963年,フランス,108分

監督
ルイ・マル
原作
ドリュ・ラ・ロシェル
脚本
ルイ・マル
撮影
ギスラン・クロケ
音楽
エリック・サティ
出演
モーリス・ロネ
ベルナール・ノエル
ジャンヌ・モロー
アレクサンドラ・スチュワルト
preview
 アルコール中毒で精神病院に入院したアラン、4ヶ月に及ぶ入院ですっかり治ったが、妻のいるニューヨークからやってきた旧友のリディアにニューヨークに行く気はないと告げる。そしてその日、拳銃をもてあそびながら、外を眺めていた彼は、見捨てたはずの街パリへ明日行くことに決める…
 虚しさに打ちひしがれた青年を過ぎた男、その男と周囲との関係をリアルに、しかし重苦しく描いたルイ・マルの名作のひとつ。
review

 ヌーベル・バーグとは、大人になる/なれないことを描く映画だったのだろうか。このルイ・マルの代表作といえる『地下鉄のザジ』も、ゴダールの『勝手にしやがれ』も、トリュフォーの『大人は判ってくれない』も、大人と子供の狭間、大人と子供の断絶、大人と子供のディスコミュニケーションを描いていた。
 ヌーベル・バーグがそのようにして大人になれない子供を描いたものだとしたら、この作品はヌーベルバーグの最期の作品ということになる。もちろん作られたのが最後という意味ではなく、ヌーベルバーグという子供が大人になることを拒否し続けたのなら、この主人公のアランはそのヌーベルバーグが迎えた最期を体現しているということになるだろう。
 大人になれない子供の最期とはもちろん、大人になってしまうことか、大人にならないまま死んでしまうことだ。永遠に大人にならずにいらる子供はいない。大人になれない子供は、いつしか大人たちの中にひとり取り残され、大人との間に開いた断絶を飛び越えるか、その断絶に落ち行くのかの選択を迫られるときが来る。このアランは、その選択をアルコール中毒に逃れることで先送りにしてきたが、その中毒が冷めた今、否応無くその選択を迫られてしまっているのだ。
 しかし、彼はその選択に対して絶望的だ。彼は大人になった人々が見せる落ち着きに対してそれが「羨ましい」と何度もつぶやく。しかし、そのつぶやきは決して自分もそうなりたいという想いの発露ではない。彼にとって大人たちの落ち着きとは青春の忘却、情熱の喪失、希望の消滅の証でしかない。彼が「羨ましい」と言うのはおそらく、そのような虚しい場所に落ち着いていられる無感覚に対する皮肉だろう。彼は自分は決してそのような虚しい場所に落ち着いてはいられないという絶望感にさいなまれているのだ。

 この映画が子供になれない大人を描くものとしてのヌーベル・バーグの最期であるというのは、この映画がそのような虚しい場所に落ち着いていられる大人を受け入れてしまっているからだ。確かにアランはそれに抵抗し続けている。しかし、ルイ・マルは彼の友人たちに「大人には大人の言い分がある」的なことを言わせることで、彼らを認めてしまっている。彼らがアランをまるで壊れ物であるかのように扱い、彼が大人になれるように何とか手引きをしようとする。アランは本当に大人になれない子供の最期の一人なのだ。そして彼が子供であることをやめるとき、それが意味するのは大人たちの勝利であり、大人になれない子供の消滅である。
 『勝手にしやがれ』のラズロは大人たちに一矢を報いたが、このアランにはそれすらも出来なかったのだ。彼の抵抗は大人たちにとっては痛くも痒くもない虚しいだけのパントマイムだったのである。

Database参照
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