私は貝になりたい
2006/9/1
1959年,日本,97分
- 監督
- 橋本忍
- 原作
- 橋本忍
- 加藤哲太郎
- 脚本
- 橋本忍
- 撮影
- 中井朝一
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- フランキー堺
- 新珠三千代
- 水野久美
- 笠智衆
- 中丸忠雄
- 藤田進
- 加東大介
- 藤原釜足
高知の漁村で理髪店をやっている清水豊松のところにも赤紙が来て、国内で本土決戦に向けて訓練をしていた。そんな中、撃墜されたB29が近くの山中に落ち、その操縦士が捉えられた。豊松はその捕虜の処刑を命じられ、勇気を振り絞って銃剣を突き立てるが…
前年放映され評判を呼んだテレビドラマの映画化。あまり人々の目に触れることのなかったBC級戦犯裁判を取り上げ、人々の感動を誘った。
まず観客が憤るのはGHQによって行われた主人公の清水豊松をはじめとする戦犯を裁く裁判の不誠実さである。そこにあるのは不十分な通訳を介した会話というディスコミュニケーションと、自分たちの価値観を押し付ける傲慢さである。これは不誠実という単純な問題であるように見えるが、その背後には複雑な背景が存在する。
この作品を表面的に観て行くと、彼が捕虜を殺したわけではなく、彼は死人の腕を突いただけなのだから、死刑という判決は冤罪に等しいと考えられるようになっている。そして、その冤罪の理由とされているのは日米の価値観の違いである。上官の命令に逆らえるはずがないという価値観と上官の命令に不正があるのなら軍事裁判に訴えればいいのだという価値観の違い、それはまた、滋養のために牛蒡を食べさせてあげるという価値観と木の根を食べさせられたという価値観の違いでもある。その価値観の違い、相互の理解不可能性のために、豊松は死刑になってしまう。その悲劇と無念さがこの物語の主題となるわけだ。
しかしそれだけだろうか。確かにそれはひとつの原因ではあるが、今から見れば、この物語の生んだ悲劇の原因はそのような価値観の違いだけではないことは明らかだ。このGHQの傲慢さは日本人を理解できないということよりむしろ、捕虜虐待に対する彼らの憎しみにも似た怒りからきていると考えるべきだ。BC級の軍事裁判を開いた連合国は何よりも日本軍の捕虜に対する虐待に対して憤りを覚え、それを実行した人々に厳罰を課した。彼らは日本軍の捕虜の扱い方に怒っていたのである。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』によれば、ドイツとイタリアの捕虜になった米英兵の死者の割合は4%であったのに対し、日本ではそれが27%だったのである。その数字が意味するように、英米では尊重されるのが当たり前の捕虜の人権が蹂躙されたことに彼らは憤っていたのだ。これもまた価値観の違いではあるが、牛蒡の問題のような単純な誤解という簡単な問題ではなく、もっと根の深い問題なのである。この捕虜に対する考え方の違いは終戦直後の占領期に作られた映画(たとえば『暁の脱走』)にもよく取り上げられている。そこでは「敵さんでは捕虜になるのは最後まで戦ったことの証明であり、名誉なのだ」ということが、不思議なことであるかのように語られる。
そのような背景によってこの物語の主人公清水豊松は死刑判決を受けたのである。彼が実際には捕虜を殺したわけでもないし、上官の命令にはむかうということが事実上不可能だったという事実とはまったく関係なく、彼は占領軍の怒りの矛を向けられ、死刑を宣告されたということだ。
それはいったいどういうことか。今われわれはこの物語から何を読み取ればいいのか。私には清水豊松は“システム”の犠牲者であるように思える。そのシステムとはもちろん戦犯裁判というシステムであり、それを作り上げた連合軍、特にアメリカに批判の矛先は向く。しかし、同時にこの清水豊松は日本の軍国主義というシステムの犠牲者でもある。なぜなら、彼が死刑の判決を受けたのは結局のところ上官の命令には逆らえないというシステムのせいなのだ。もちろん上官たちが自分自身の保身のために責任を擦り付けたという要素も否めないが、実際に彼を捕虜虐待(死体に対してであれ虐待したということは疑いの無い事実だ)という行動に差し向けたのは軍国主義というシステムなのである。そしてそれはつまり、彼が戦争という大きなシステムの犠牲者であるということだ。彼は戦場で戦死した人々と同じく、敵対するふたつの勢力が利害関係から起こす戦争という悲劇の犠牲者として死ぬのだ。
ならば、彼の死の責任は大きな意味での戦争責任という問題に結びついていく。そしてそれは彼の主観的な考えとも一致するだろう。結局彼は「上官の命令は天皇陛下の命令である」という行動原理につき動かされて捕虜に銃剣を突き立てたのであり、占領軍の裁判官が何と言おうとそれは天皇陛下の命令だったのだ。この映画ではこのことが強調され、暗に彼の行動の究極的な責任を天皇に求めている。そして、それはその命令系統の頂点にいる天皇が責任を取らないことに対する控えめな批判ともなっているのだ。
そのことによって立ち表れる問題は非常に根深く答えを見つけるのが困難なものである。それは終戦とその後の占領期を経て天皇の意味がドラスティックに変化してしまったからだ。大元帥として軍隊のヒエラルキーの頂点にいた天皇が終戦によって軍国主義者たちの操り人形であったことにされ、新憲法によって肩書きを“象徴”と書きかえられることで民主主義と平和主義を掲げる新生日本の顔となってしまった。実際に天皇が戦争中にまったく権限が無かったわけではないし、少なくとも詔書によって戦争を始めた責任はあるはずだ。その天皇が責任を負わず、GHQの言うがままに民主主義の“象徴”へと鞍替えしてしまったことによって、誰が責任を取るのかという問題が曖昧になってしまった。そしてその責任の所在は、戦時の命令と同じように下へ下へと移譲され、結局清水豊松のような末端の兵士がその責任を負うことになってしまったのだ。その責任の所在の曖昧さは、彼が捕虜を突き刺すことになった命令の曖昧さと鏡に写したようにまったく同じ構造を持っているように思える。
この作品を深く掘り下げていけば、そのような問題に行き着くように思えるが、この作品自体はそのことには触れようとしていないようにも見える。それはGHQとそれにうまく取り入った日本の新しい権力層によって作り上げられた新たなタブーなのか、それとも日本人の天皇に対する素朴な敬意の表れなのか。このような戦争と戦後の体制を問題化する作品においても天皇の責任が面と向かって問われる事はないのだ。そしてそのまま、日本はここまで進んできてしまった。今となっては天皇の責任を持って戦後を清算するなどという発想は皆無である。しかし、当時日本人はそのことをもっと真摯に捉えていた。たとえば戦艦武蔵の生き残りである復員兵の渡辺清は自身の日記を書籍化した『砕かれた神』において、いつまでたっても責任をとろうとしない天皇を見て、「天皇は逮捕されるしないにはかかわりなく、その責任だけはちゃんととるべきだし、またとらなければならない。それでなければ第一、自分の命令で死んだ多くの死者にたいしても申し訳が立つまい」と書いている。
この渡辺清の考え方は、死者に報いるということと天皇の戦争責任というものを結びつけるヒントを与えてくれる。この『私は貝になりたい』では天皇の存在を意識させる一方で「死者に報いる」という発想は皆無であるのに対して、『軍旗はためく下に』では「死者に報いる」ということが問題の中心となって いる一方で天皇の責任についてはほのめかす程度にとどまっていた。このふたつの問題が決して交わらないところに、日本人があの戦争(私はずっと60年前に終わった“あの戦争”に名称を与えていないが、それは日本の帝国主義政府が考え出した大東亜戦争という用語も、戦勝国がそれを置き換えた太平洋戦争という用語も、あの戦争を正確に表現しえていないと思うからだ。)をどう捉えればよいのかという戸惑いが存在し続けている原因があるのではないかと思う。