驟雨
2006/10/7
1956年,日本,87分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 岸田国士
- 脚本
- 水木洋子
- 撮影
- 玉井正夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 佐野周二
- 原節子
- 小林桂樹
- 香川京子
- 根岸明美
- 加東大介
並木亮太郎と文子の夫婦は結婚4年、ある休日、つまらないことで喧嘩して夫が出て行ってしまったところに文子の姪のあや子がやって来て新婚旅行の愚痴を言い始めた。そんな夫婦の隣家に若い夫婦が引っ越してくる…
成瀬がいわゆる「夫婦三部作」に続いて撮った夫婦もの。原節子が『めし』『山の音』に続いて妻役を演じている。
原節子はこの作品でいわゆる「夫婦三部作」と同じく子供のいない夫婦の主婦といういう役柄を演じている。彼女が演じる文子は専業主婦で、夫との関係も倦怠期に差し掛かり、休日も特に何もしない。そんな中で近所の野良犬をかわいがったりしているのだが、その隣に小林桂樹と根岸明美の夫婦が引っ越してきて、少し状況が変わる。夫婦の間に地入社が入ってくることでその状況が変わるという設定は『めし』や『夫婦』と同じで、今度はそれが一人ではなく、夫婦であるということで変化が加えられている。そして、その小林桂樹演じる隣の今里が文子になんとなしの好意を寄せ、文子の夫の並木(佐野周二)のほうは今里の妻アヤ子になんとなしの好意を寄せることになる。
この関係性が意味するところが、成瀬が描こうとする夫婦の本質であるのかもしれない。倦怠期に差し掛かった夫婦というものが普遍的に持つ浮気心というか、どうにもルーティン化して陳腐になってしまった夫婦関係に辟易し、別の刺激や関係を求めるという傾向、それは家庭に閉じ込められている妻に特に強く出る。
原節子が演じるのはそのような主婦の閉塞状況だ。馴れ合いや行き違いから夫婦の間に亀裂が生じ、しかしその亀裂に目を向ける事はせずに、亀裂があるままでその夫婦関係に拘束される。そのために、ただ夫を待つだけの生活には刺激がないばかりかむしろ好ましくないものに変わり、他に何か生活を潤してくれるものを探してしまう。しかし、妻はつつましくあるべしという道徳意識にも縛られるし、自由に外に出て好きにふるまうという奔放な女性になることも難しいから、不満は鬱積して行くばかりである。そこでその心の空洞を埋めてくれるものを探す。
同じく原節子が妻を演じた前の2作品でも同じような状況があり、『めし』ではその亀裂が表面化すること自体がテーマとなり、『山の音』では義父の存在がその空白を埋めていた。しかしこの『驟雨』ではその亀裂は(夫の浮気や浮気心いう形では)表面化せず、そのために同じようなわかりやすい構造はとられない。この作品で原節子が演じる文子は夫を愛していないわけではないし、むしろ夫と一緒にいることを望んでいるのだ。しかし、夫との間には小さな行き違いが積み重なり、小さな亀裂が走っている。そしてその亀裂は決定的な断絶にもつながりかねないものになりつつあるのだ。亀裂が小さい間は野良犬に愛情を注ぐというようなことでその心の空白を埋めることが出来ていた。しかし問題がこじれ、亀裂が大きくなったとき、彼女にはそれを埋めるものがないのだ。
その亀裂は互いが隣家の夫婦のそれぞれになんとなく魅かれるということでほのめかされ、さらには文子が外に出て働くと言い出すことによって決定的になる。しかも夫は妻が外に出ることを嫌う。その理由が明確ではないだけに、夫の封建的な性格が明らかになり、夫婦関係におけるこの封建的な関係の残存が女をさらに生きにくくするのだ。
この封建関係の残存というのは50年代に成瀬が描き続けたテーマである。戦前から女性というものを追求し続けた成瀬はもちろん女性が家庭の中で抑圧されているということに批判的だった。女性が“女”として生き続けることが出来る社会、と言ってしまうと大げさだが、女性が“女”として自分自身の人生を生きることが出来る自由を成瀬は求めていた。その中で封建的な関係の残存は女を妻という形で家庭に縛り付け、個人として生きることを阻害しつづけてきた。
しかし戦後日本では、夫婦の対等が一般的に受け入れられるようになった。それに貢献したのは戦後の憲法などに表れた民主主義な考え方などではなく、意外にも女性の性的満足が結婚生活に不可欠であるとする考えの芽生えであった。そのきっかけになったのは『完全なる結婚』という、オランダの婦人科医ヴァン・デ・ベルデの診療用マニュアルを翻訳した真面目な本だった。この本には結婚生活を円滑にするための成功の技術について詳述してあり、戦前には「性の解放」の本として発禁になっていた。これが戦後になって再翻訳されて話題となり、一年以上もベストセラーのトップ10にい続けたのだ。これを受けて『夫婦生活』という雑誌が創刊され、月刊3万部を超えるヒットとなったのである。この『完全なる結婚』と『夫婦生活』によって夫婦間の性交が正当な行為として扱われるようになり、それに対して夫婦は対等に楽しむ権利があるということから、両性の対等の思想が広まって行ったのである。
そんな時代、両性の対等が叫ばれる時代にあっても、まだ女性は家にいて家事をするべきだという考え方はもちろん残存していたし、それが一般的な考え方であった(50年以上がたった今でもそう考える人が相当数いるくらいである)が、家庭の中では女性が主導権を握るというように考え方が変化して行った時代でもあった。しかし、この文子はそのような自由も、家庭内での主導権も握ることが出来ていない。それは金銭的な面でも彼女が夫に従属しており、家計の予算を夫から任されているわけではなく、必要な分を夫からもらっているということからもわかる。
彼女の息苦しいような不自由さ、それはこの時代の女性が破らなければならない壁の存在を意味する。家庭という壁、自分の意識という壁、世間の考え方という壁、それらの壁を打ち破るべく、文子は自立をしようとして外に出て働こうとし、夫の同僚が提案する商売にも乗り気になるのだが、夫は封建的関係にこだわり、妻が自分の意思で自分の人生を決めようとするのを邪魔する。彼がやっているのは自分の意図を通すことではなく妻の邪魔をすることでしかないのは明らかだ。
彼は自分が会社をクビになるかもしれないという情けなさを隠すために妻に反対しているのだ。自分の考えと、妻が乗り気な同僚たちとの提案のどちらがいいのかを勘案して結論を出しているのではなく、あくまでも自分の情けなさを隠すため、封建的な権威によって妻を従わせることによって夫の権威を保つために自分の主張に固執しているのだ。これはまったく情けない男である。この「男の情けなさ」はさらに女を生きにくくする。
しかし、それでも文子は夫を嫌いになったというわけではない。むしろ夫のことを愛していて、夫と一緒に生きて行きたいと思っているのだ。しかし、それには自分が(夫の付属物としてではなく)一人の人間として生きなければならないと考える。そしてその考え方は夫のものとは一致しないのだ。