家の鍵
2007/12/18
Le Chiavi di Casa
2004年,イタリア=フランス=ドイツ,111分
- 監督
- ジャンニ・アメリオ
- 原作
- ジュゼッペ・ポンティッジャ
- 脚本
- ジャンニ・アメリオ
- サンドロ・ペトラリア
- ステファノ・ルッリ
- 撮影
- ルカ・ビガッツィ
- 音楽
- フランコ・ピエルサンティ
- 出演
- キム・ロッシ・スチュアート
- アンドレア・ロッシ
- シャーロット・ランプリング
ジャンニは生まれて以来15年間あっていなかった障害を持つ息子パオロを育ての親から預かる。育ての親は父親と過ごすことで奇跡が起きることを期待し、ジャンニは15年間の埋め合わせをいようとドイツの病院への付き添いをジャンニがすることになったのだ。そしてジャンニはパオロと過ごす中で何かを見つけていく…
感動的ではあるがつらく苦しくもあるドラマ。ジャンニ・アメリオはヴェネチアで金獅子賞を受賞した『いつか来た道』以来6年ぶりの監督作品となった。
イタリアで息子の付き添いを依頼され、15年間あっていなかった息子とドイツに着いたジャンニは、そこで二重のディスコミュニケーションに悩まされる。ひとつは言葉の通じないドイツ人との間のディスコミュニケーション、そしてもうひとつはその意図や心理を理解することができない息子とのディスコミュニケーションだ。ディスコミュニケーションは人に恐れを抱かせる。意図が通じない相手との関係においては「何かしてはいけないことをしてしまったのではないか」という恐れが常に付きまとう。
互いにそれを認識している人の間では、相手もそう思っているのだと考えて気を落ち着かせることもできるのだが、パオロとの関係においてはジャンニはそのような気休めで自分を納得させることはできない。ジャンニにはパオロの意図が読み取れないが、パオロはそのことを勘案してはくれない。
そこで救世主のように現れるのがイタリア語を解する障害児の母ニコール(シャーロット・ランプリング)である。彼女はジャンニにドイツ語を通訳し、障害児への対処の仕方もさりげなく教える。ジャンニは彼女を通じて二重のディスコミュニケーションを解消するが、それはあくまでも媒介者を通してのものでしかない。彼女がいる間にジャンニはパオロとの関係の築き方を学びはするけれど、彼女がいなくなりふたりになるとやはりどこにはディスコミュニケーションの壁が立ちふさがる。
障害を持つ子供(あるいは大人)をモチーフにした感動作というのは決して少なくない(たとえば『アイ・アム・サム』や『オアシス』)が、この作品のように障害のもつ子供(あるいは大人)への対処の難しさやいらだたしさを露骨に描き、そこから考えさせる映画というのはなかなかない。
ここに登場するパオロのような子供は他人として現れればわずらわしく、いらだたしい存在である場合も多い。理性では理解し、受け入れたいと考えるのだが、突飛な行動や言動を感覚的に拒絶してしまうのだ。しかししっかりと対峙し、ゆっくりと交流すれば、表現の方法が違うだけで同じ感情や考えを持っているということはわかるのだと思う。そしてそうすればうまく対話をし、分かり合うこともできていくのだと思う。
15年間会わないでいたジャンニにはその時間がなく、急に息子と過ごすことになった数日間でそれを感じ取る。しかしそれでもやはり簡単に分かり合うことはできず、簡単に信頼関係を築くことはできない。
パオロは最初にジャンニに会ったとき、自分の家の住所や電話番号、「やることがたくさんあること」を告げ、家に帰りたいという。そして“家の鍵”をジャンニに見せるシーンでも“家”が彼のシェルターであることを表明する。しかし、ふたりが少しずつ近づき、ジャンニが「一緒に暮らそう」といったときパオロは「ボクの鍵でジャンニの家の扉が開くかなぁ」と言う。これは非常に感動的だし、本当にうまいと感じさせるシーンだ。
しかし、そのままスムーズには行かず、最後にまたむむっとうならされるシーンがあり、映画は幕を閉じる。このラストは本当にうまい。
ジャンニ・アメリオの作品は初めて見たし、日本ではあまり公開されてもいないのだが、かなりうまい監督だと思った。確かに映画としては単調で退屈な部分もあるが、その行間に語られることが多く、いかにもヨーロッパの映画という風情がある。考えさせられる大人の映画が好きな人にはぜひ見て欲しい作品だ。