めがね
2008/5/13
2007年,日本,120分
- 監督
- 荻上直子
- 脚本
- 荻上直子
- 撮影
- 谷峰登
- 音楽
- 金子隆博
- 出演
- 小林聡美
- 市川実日子
- 光石研
- もたいまさこ
- 加瀬亮
- 薬師丸ひろ子
とある南の島の空港にプロペラ機で降り立った一人の女性サクラ、浜にある小屋に着くと、そこで準備をしていた男女に深々と頭を下げた。別の女性タエコは地図を頼りに小さな宿ハマダに向かう。そこの主人はタエコを暖かく迎えるが、夜はほったらかし、タエコが朝目覚めると、布団の脇にサクラが座っていた…
タエコと島の人たちの風変わりな交流を描いたハートウォーミング・コメディ。主要登場人物がみなめがねをかけている。
荻上直子の前作『かもめ食堂』では、小林聡美が迎える側、もたいまさこがやってくる側であったが、旅人がひとつの場所で長くすごすことになるという設定は同じ、前作は遠くフィンランドのカフェが舞台で、今回は日本のどこかの南の島の旅館とカキ氷やが舞台である。
今回もせりふは少ない。このせりふの少なさがこの監督ともたいまさこを結びつける。もたいまさこは『バーバー吉野』以後、この監督のすべての作品に出演しているが(2005年には荻上直子が『やっぱり猫が好き2005』の脚本を書いてもいる)、それはもたいまさこがせりふを使わず、表情だけで演技できる役者だからだろう。その特性がこの監督のせりふの少ない作風にあい、かつ欠かせない存在となっているのだ。
結局たいした事件が起きるわけではない。小林聡美演じるタエコがなぜここにやってきたのか、彼女を追ってやってきた加瀬亮演じるヨモギ君は「先生」と呼ぶが、いったい何の先生なのか、もたいまさこ演じるサクラは島にいない間は何をしているのか、ユージもハルナも島の人ではないがいったいいつなぜ島に来たのか、そのような疑問がわくものの、そのほとんどが明らかにならない。
しかしそれでいいのだ。美しい何もない風景と、おいしいが特に珍しくもない食事、そして黄昏、この作品が描くのはただそれだけ。ただそれだけを描くことで旅というもの、人生というものを描こうとする。この場所は確かに黄昏が苦手な人には向かない。だから、この映画もそんなぼんやりとしたことが苦手な人には向かない。それが苦手な人は“マリンパレス”に行けばいい。そこはそこで、はまる人ははまるはずだ。“ハマダ”と“マリンパレス”は対極にあり、それはいわば旅と人生の縮図になっている。“ハマダ”がいやになって“マリンパレス”に行ったタエコはそこを見てすぐに引き返すが、帰り道に迷ってしまう。空港からは迷わず“ハマダ”に行くことができたのにだ。
これは、求めるものが与えられたのにそれに気づかずに別のものを求め、その結果さきほど与えられたものを見失ってしまうということだ。まあ、それが人生の暗喩だなどということは言わないが、こういう何もないような物語に含まれている寓話的なエピソードが面白く見えるのはそこに何か原物語的なものが含まれているからだろう。
みんながサクラの自転車の後ろに乗りたがるのはそれが“救い”だからだ。黄昏が得意で人生に迷い、救いに対する感度が鋭い人たちはそれが“救い”であることをすぐに感知する。しかし、何が問題なのかをわかっていないタエコはそれが“救い”であることを認識しないまま救われる。タエコはそこから徐々に救われた自分を自分の中に見出していくのだ。
そんな風に考えると、この物語はどこか神話じみてきてしまう。もたいまさこは年に一度訪れる救いの神で、ハマダに集う人々はそれを待つ民であると。そう考えるとメルシー体操もどこか宗教儀式のような… まあ、それは考えすぎだが、宗教というのは人間の生活と寄り添ってできたものだから、人間が生活の中で見出す安らぎや救いというものが宗教と似てくるのは仕方のないことだ。
この作品のふわふわした感じは、宗教だとか人生といった深刻になりがちなテーマには陥らないようにしながらも、人々の心の奥底にある何かにちらり触れるために非常にいいスタンスなのではないか。ただのどかなだけの作品とは違うものがあると思う。