イースタン・プロミス
2008/6/12
Eastern Promises
2007年,イギリス=カナダ=アメリカ,100分
- 監督
- デヴィッド・クローネンバーグ
- 脚本
- スティーヴ・ナイト
- 撮影
- ピーター・サシツキー
- 音楽
- ハワード・ショア
- 出演
- ヴィゴ・モーテンセン
- ナオミ・ワッツ
- ヴァンサン・カッセル
- アーミン・ミューラー=スタール
- ラザ・ジャフリー
クリスマス直前のロンドン、ロシア人の妊婦が病院に運ばれてくる。子供は救えたが、母親はなくなり、助産師のアンナはその母親が持っていたロシア語の日記をロシア人の叔父に見せる。同時にその日記に挟まれていた“トランスシベリアン”というレストランを訪ねるが、そこはロシアン・マフィアのボスの一人が経営しているレストランだった…
クローネンバーグが『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続いてヴィゴ・モーテンセンを主演に迎えたサスペンス・ドラマ。リアルがゆえに血なまぐさいシーンもあり、心臓には悪いかも。
クローネンバーグというとなんともどろどろあるいはぐちゃぐちゃとしたちょっと気持ちが悪い映像を駆使した独創的なホラーやサスペンスである。そんな特徴がよく表れていたのは『ビデオドローム』だったり『ザ・フライ』だったり『イグジステンズ』だったりする。そしてそのどろどろぐちゃぐちゃしたものというのは基本的に人間を中心とした現実の醜さを表現したものといって間違いはないだろう。
そのクローネンバーグが『ヒストリー・オブ・バイオレンス』で見せたのはどろどろぐちゃぐちゃではなく、非常にドライな暴力だった。しかし、その描写はグロテスクで、暴力が人に与える痛みと恐怖を明確に描いていた。それはどろどろぐちゃぐちゃとした気持ち悪さとは異なるものだけれど、われわれが抱えざるを得ない現実の醜さを描いているという意味では一貫した彼の表現であった。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』によってクローネンバーグは、現実を幻想的なものに置き換えて描くことから、現実を現実として描くことへと物の描き方を変えたのだと考えることができる。
この『イースタン・プロミス』ではさらにもう一歩踏み込んで、暴力と社会とを直接的に結びつける。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』はそのタイトルの通り暴力そのものを描いたものだったけれど、この『イースタン・プロミス』においては暴力が社会の中に置かれ、人がそれとかかわらざるを得ない現実の醜さを描いている。
この作品におけるクローネンバーグの描写は不必要なほどに過剰に見えるかもしれない。話題にもなったサウナでの全裸での格闘シーン、全裸の体をナイフが切り裂くそのむごたらしさはショッキングで、R18になったのも仕方がないと感じるが、このむごたらしさは決して不必要なものではなく、このむごたらしさこそが暴力の真実なのだ。
殴られても切りつけられても痛みを感じないかのように戦い続けるハリウッド映画のヒーローは暴力を無痛化してしまう。そのヒーローに一撃で倒される敵役は死を無痛化してしまう。しかし暴力や死というのはもんどりうつほど痛いものだし、体から流れる血は生臭いにおいを放つものだ。クローネンバーグの映画はそのような痛みや臭いを観客に感じさせる。彼の作品はそのようにして暴力にリアリティを取り戻すのだ。
それは観ているものに苦痛を感じさせ、決して気持ちのいいものではない。しかしそのようにして暴力のむごたらしさを想起することは戦争や犯罪という暴力がメディアを介することによってわれわれの現実から遠ざけられてしまった現在においては必要なことなのではないか。
この作品が描くロシアン・マフィアという題材は私たちの現実から遠く隔たった世界のことのように感じる。しかし、主人公のアナは私たちと同じように生活し、悩みを抱えた普通の人間である。そのアナがいやおうなく巻き込まれてしまう暴力、それは私たちの生活のすぐそばにもそのような暴力が潜んでいることを示唆する。
ストーリーも秀逸。ただ仕掛けは比較的たやすくわかってしまう。