馬鹿が戦車でやって来る
2008/9/8
1964年,日本,93分
- 監督
- 山田洋次
- 原案
- 團伊玖磨
- 脚本
- 山田洋次
- 撮影
- 高羽哲夫
- 音楽
- 團伊玖磨
- 出演
- ハナ肇
- 犬塚弘
- 岩下志麻
- 松村達雄
- 花沢徳衛
- 谷啓
片田舎の日永村。その貧乏一家に暮らすサブは耳の不自由な母親と頭の弱い弟の兵六を抱え、村人達から馬鹿にされていた。そんなサブに同情する村の長者の娘紀子は快気祝いの席にサブを招待するが、サブはそこでもみなに馬鹿にされ暴れまわったことで警察に捕まってしまう。帰ってきたサブは恨みを晴らそうと隠し持っていたタンクを始動させる…
山田洋次×ハナ肇の“馬鹿”シリーズ最後の第3作。シリーズのコメディ路線を踏襲してはいるが、物悲しく悲哀を感じさせる作品。
シリーズ第1作の『馬鹿まるだし』、第2作の『いいかげん馬鹿』は完全なる喜劇だった。しかし、この作品は喜劇というよりは悲劇といったほうがふさわしい。相変わらずの“馬鹿”役のハナ肇はみなに馬鹿にされ、おだてられ、調子に乗って馬鹿なことをしてしまう。それは同じだ。そして、そのハナ肇演じる主人公に同情的で唯一理解してくれると言っていい女性が登場するのもまた同じだ。しかし、表面的な設定はまったく同じでも、その内容はまったくと言っていいほど違う。
第1作の『馬鹿まるだし』の主人公安五郎は根は正直だが暴れん坊で周囲から恐れられながらどこかで頼られていた。『いいかげん馬鹿』の主人公安吉は馬鹿なことを繰り返しながらもその大胆さで村人達の憧れをどこかで受けていた。しかし、この『馬鹿が戦車でやってくる』の主人公サブは馬鹿にされこそすれ、頼られたり憧れられたりということはまったくない人物だ。村一番の貧乏でただ馬鹿にされるそんな主人公なのだ。
そして、その主人公と憧れの女性との関係もまた変化している。第1作ではモチーフとなった『無法松の一生』そのままに憧れの女性は安五郎の保護者としてそこに居続け、常に安吉を制御していた。第2作では憧れの女性はある意味で安吉が頼るよすがであり、常には安吉のそばに居ないのだけれど、心の中に常に自分がよるべき基準として存在し続けていた。しかし、この第3作においては憧れの女性であるはずの紀子はほぼ不在であり、サブがタンクに乗ったとき、村人が「お嬢様なら止められるのに」というが、その言葉はただただむなしく響く。
この変化が意味しているのは、おそらくハナ肇演じる“馬鹿”のような人物を社会が受け入れなくなってしまっていることを意味しているのではないかと思う。第1作の舞台は戦後すぐ昭和20年代の前半だが、第2作と第3作の舞台はほぼリアルタイムの昭和30年代である。戦後日本の急速な変化はそれまでは共同体が受け入れていた彼のような半端者を、社会が受け入れられなくなってしまったということを意味している。それはこの作品では彼の家族がみな何らかの“欠陥”を抱えており、その家族もろともが村から疎外されているということからもわかる。
そしてその中でも最も社会から離れたところに居るサブの弟兵六が最後に死に、それをサブがタンクもろとも海へ沈めに行く。この兵六とタンクの埋葬は“気違い”と呼ばれる純粋で無害な白痴的人物と無鉄砲だけれど愛すべき『馬鹿まるだし』の安五郎的人物がともに社会からは葬られてしまうということを意味しているのだ。
サブが十数年間もタンクを隠し持っていた理由は何か、私は彼なりに自分の家族や村に何かあったときに、それを守るためにこそタンクを持ち続けていたのではないかと思う。しかし、そんな彼を村人達は疎んじ、彼は結局そのタンクを守るつもりだった村人達に向けることになってしまう。
この物語の悲しさは、そのように社会が変化してしまったことに対する山田洋次の哀しさの表現なのだろう。喜劇シリーズというよりは1年間に3作品が撮られ、それで完結したということを考えると三部作というべきこのシリーズが非常に喜劇的な作品で始まり、まったく喜劇的ではない作品で終わったことに、監督の強いメッセージを感じる。