フル・フロンタル
2005/1/10
Full Frontal
2003年,アメリカ,101分
- 監督
- スティーヴン・ソダーバーグ
- 脚本
- コールマン・ハフ
- 撮影
- ピーター・アンドリュース
- 音楽
- ジャック・ダヴィドヴィッチ
- 出演
- ジュリア・ロバーツ
- キャサリン・キーナー
- メアリー・マコーマック
- デヴィッド・ハイド・ピアース
- デヴィッド・デゥカヴニー
- ニッキー・カット
- ブレア・アンダーウッド
- テレンス・スタンプ
- ブラッド・ピット
映画はまず登場人物の紹介に始まり、次に劇中劇となる映画「ランデヴー」が始まる。一方、大企業の人事部長を務めるリーは夫で脚本家のカールに離婚を決意した置手紙をするが、カールはそれを見ずに出かけてしまう。また、ビバリーヒルズでは大物映画プロデューサーのガスの誕生日パーティーが開かれることになっていた。
スティーヴン・ソダーバーグは『エリン・ブロコビッチ』のようなヒット作を作るのと平行して作り続けている実験的な作品のひとつ。豪華スターが出演しているが、映画の内容は非常に地味で淡々としている。
ソダーバーグを世に出した作品といえばもちろん『セックスと嘘とビデオテープ』。それは地味でリアルな映画、アメリカ映画ではあるけれど、ハリウッドの大作とは正反対にアンチクライマックスの映画である。その映画の評価は高く、カンヌのパルムドールまで取ったけれど、ソダーバーグはその後、不遇をかこち、『セックス…』からほぼ10年後に、ハリウッド的なエンターテインメント作品である『アウト・オブ・サイト』でようやく復活することになる。そして、この作品でジョージ・クルーニーとジェニファー・ロペスを映画界でもスターに押し上げたソダーバーグは役者の新たな魅力を見出す監督として力を発揮する。それ以後の活躍は言わずもがなである。
そんなソダーバーグが再び『セックス…』的な作品として作り上げたのが、この『フル・フロンタル』であるが、これは単なる原点回帰ではない。彼は不遇をかこっていた間にももちろん作品を撮っている。そのうちのひとつ『スキゾポリス』は低予算(ソダーバーグ自身が二役で出演)ながら非常に実験的で革新的な、インディペンデントで撮られた映画である。この作品はもちろんヒットしなかったが、映画としてはかなりの完成度にあり、ゴダールを敬愛してやまないソダーバーグがたどり着いたひとつの終着点であったのだと思うのだ。そこでひとつの理想的な形というか、自分の追究するスタイルを見出したソダーバーグはそれをメジャーな形で実現できるようになるために、いわゆるヒット作を作り始めたのではないかと私は思うのだ。そこにはもちろんその不遇の時代に培った技術が生かされているわけだが、芸術家ソダーバーグとしてはそれらの作品が自分の目指すものではないだろうと思うのだ。
そのようにソダーバーグの歴史を見てみると、この作品は『セックス…』に回帰したという意味で、ソダーバーグが追及するスタイルの新たな展開なのではないかと予想されるわけだ。実際にこの作品はアンチクライマックスであり、群像劇という形をとることでリアリズムを追求しているように見える。
しかし、これは私には『セックス…』のハリウッド版焼き直しでしかないように見えるのだ。『スキゾポリス』で見せたようなアクロバティックな実験性はそこにはない。ただドキュメンタリータッチで撮った群像劇でしかない。リアリズムであるように見えるのは、その手法がドキュメンタリータッチであることからくる幻想に過ぎないのではないか。
それを強く思うのは、この映画が舞台としているのが映画界の舞台裏であり、いわゆるセレブたちの世界であるからだ。それはわれわれ観客とは隔絶した世界だから、観客の視線は自ずとその中で唯一と言っていい「普通の人」であるアンに向く。そしてそのアンの眼から見たこの映画の世界はやはり別世界なのである。つまり、この映画から感じられるリアリティはフェイクでしかなく、実際はあくまでもハリウッドの作り上げる幻想のひとつなのである。
ソダーバーグはこの作品でいったい何をしたかったのか。そのようにハリウッドという世界の誤謬製を暴くことで、自分が犯されつつあるハリウッドという毒の毒抜きをしたかったのか、それとも本当に自分の行くべき方向を見失ってしまったのだろうか。