エンジェル
2007/11/30
Angel
2007年,イギリス=ベルギー=フランス,119分
- 監督
- フランソワ・オゾン
- 原作
- エリザベス・テイラー
- 脚本
- フランソワ・オゾン
- 撮影
- ドニ・ルノワール
- 音楽
- フィリップ・ロンビ
- 出演
- ロモーラ・ガライ
- シャーロット・ランプリング
- ルーシー・ラッセル
- サム・ニール
イギリスの田舎町で暮らすエンジェルは小説家を夢見る高校生、自分の才能をかたくなに信じ、本も読まずに自分の想像力だけで大作をものした彼女はそれを出版社へ送る。すると、しばらくして出版したいと言う申し出が彼女の元へ届く。彼女は意気揚々と初めてのロンドンへ向かうのだが…
『8人の女たち』のフランソワ・オゾンがエリザベス・テイラー(女優ではない)の同名小説を映画化。オゾン初の英語作品。
フランソワ・オゾンが英語で映画を撮る。舞台は20世紀はじめのイギリス、舞台が変わってもコントラストの強い映像は変わらず、雰囲気は相変わらずオゾンだ。しかし、オゾンらしい曖昧さが影を潜め、どこかメリハリのある印象を受けるが、それは言葉が英語という理解可能な言語になったためで、受け手の問題なのかもしれない。そこに多少の違和感を感じるが、物語と主人公は間違いなくフランソワ・オゾンの世界である。そこは安心してみていい。
その主人公のあまりに自己中心的で自己顕示欲の強いこと。それはまさにフランス的とイメージされる。ステレオタイプ化されたイメージで言えば、エンジェルはまるでフランス人のようなキャラクターであり、イギリス人とはノラ(ルーシー・ラッセル)やハーマイオニー(シャーロット・ランプリング)のようなキャラクターだ。その意味では舞台を英国に移しても、オゾンの映画はやはりフランス映画だということだろう。
フランソワ・オゾンのすごいところは、こんなまったく共感できない主人公でありながら、物語に観客を惹きつけてしまうと言うことだ。どう考えても自分勝手で自分を過大評価しすぎる主人公、この主人公に感情移入するのは無理だし、映画の作りもそのようにはなっていない。それにもかかわらず、この映画についつい引き込まれてしまうのは、そのストーリーテリングのうまさにある。これは自分勝手な女流作家が出世するだけの話なのだけれど、その物語を進めるに当たってオゾンは、エンジェルと周囲の人たちの関係にあいまいな部分を必ず作る。それはつまり「語られない」部分を作ることだ。すべてを語らず、ほとんどのことをほのめかす程度にして、あとでそれを暴露することで観客を引き込むのだ。
たとえば、エンジェルとセオ(サム・ニール)の関係はただの作家と編集者の関係のように見えるが、二人が交わす視線には秘密がこめられているようで、そこにはセオの妻ハーマイオニーも関わってくる。作家とファンという関係から始まったエンジェルとノラの関係もそもそものはじめからノラの弟エスメが関わっていることで秘密めいたものになる。その曖昧さには引力のような魅力がある。そしてオゾンはその曖昧な部分をすこしずつっはっきりと見せていくのだ。
そしてさらにポイントだと思うのは、それが明らかにされた時点ではもはやその関係は意味をなくしてしまっていると言う点だ。すべてが明らかになった時点ではもう遅すぎ、そこに生まれるのは「ああしとけばよかったのに」という後悔だけなのだ。そのような物語がなぜ魅力的なのか、それはそれはおそらくそこに人生があるからだ。ほのめかされていた事々が明らかにされたときエンジェルの人生が持つ意味が見えてくる。それがいくら自分勝手で自己中心的ないけ好かない女のものであっても、そこには知るに値するものがある。
そのようにして人生を描くこと、それがオゾンの魅力であり、彼の作品が人を惹きつける秘密である。舞台がフランスでもイギリスでも、おそらくアメリカでも日本でも、彼は同じように作品を撮ることができるだろうと思う。
主役を演じたロモーラ・ガライは、時にはアンジェリーナ・ジョリーのように見え、時にはナタリー・ポートマンのように見えるという監事の不思議な魅力を持った美女だ。オゾンの作品には妖艶というか、男(あるいは女)を惑わす魅力を持った美女の存在は欠かせない。そしてその美女の良し悪しで映画の良し悪しもある程度決まってしまう。『クリミナル・ラヴァーズ』のナターシャ・レニエ、『スイミング・プール』のリュディヴィーヌ・サニエ、『ふたりの5つの分かれ路』のヴァレリア・ブルーニ=テデスキなどなど。
この作品はオゾンがこのロモーラ・ガライを見出した時点でほぼ成功は決まっていたと言えるだろう。『ダンシング・ハバナ』で大きな注目を集めた彼女は、ケネス・ブラナーやウディ・アレンの作品にも出演し、一躍イギリス若手女優の大注目株となった。そして、この作品でもその魅力を遺憾なく発揮している。この決して好ましくないキャラクターを演じながら、そこに魅力も持たせているのだ。
この作品はおそらくフランソワ・オゾンの作品であることよりロモーラ・ガライの作品として記憶されるのではないか。この作品における彼女の存在感はそれくらい大きなものだった。