1969年,日本,96分
監督:増村保造
原作:川端康成
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、平幹二郎、京マチ子、梓英子、船越英二

 とある茶室で開かれた茶会。その茶会を主催する栗本ちか子は、そのちか子を訪ねてきた青年菊治の父親の愛人だった。そしてそこには、菊治の父親のもう一人の愛人・太田夫人も娘を連れてやって来ていた。ちか子の狙いは菊治に見合いをさせようという魂胆だったが、菊治はその帰り菊治を待っていた太田夫人に出会う。
 これが増村作品最後の出演となった若尾文子の熱演がまぶたに焼きつく。川端康成の原作も、新藤兼人の脚本も小林節夫のカメラも素晴らしいのだけれど、頭に残るのは若尾文子の吐息。

 若尾文子の圧倒的な存在感。一番最初のセリフからそのキャラクターをしっかり示す息遣い。不自然なほどにまで誇張されたそのぜーぜーと音を立てる息遣いと、くねりくねりと作る「しな」。物語がどうの映像がどうのいうよりも、その若尾文子の尽きる作品。京マチ子演じるちか子は若尾文子演じる太田夫人を「魔性の女」と呼び、しかし映画は全体を通してむしろそのちか子こそが「魔性」であるのだと説得しているように見える。そして最後には菊治がちさ子に対して、「お前の方が魔性の女だ」というのだけれど、見終わって考えてみると、本当に魔性なのは太田夫人の方で、映画の舞台から去ってしまった後までもその呪縛が続き、存在は薄れない。いくら茶碗を割ってみたことで破片は残り、それは逆に存在を広げてしまうことになるのだろう。菊治は最後に吹っ切れたようなことを言うけれど、本当にその呪縛から逃れられたとは思えない。決して不愉快な呪縛ではないのかもしれないけれど、逃れることはできないのだろう。
 そんな若尾文子の存在感を支えるのはその物語と映像なのだけれど、脚本が新藤兼人で、カメラマンが小林節雄であるということを考えると、ことさらつらつら書くまでもないことなのかもしれない。小林節雄のフレーミングはいつ見ても秀逸なアンバランスさで、見事にフレームの中心と画像の重心をずらしている。この映画でも他の映画と同じく、人物を片側に寄せる場面、違和感のある切り返し、斜め方向へのものの配置という要素が多分に出てくる。
 でもやっぱり若尾文子。これで最後と思うと名残惜しい。これまでの増村との関係をすべてぶつけたような迫真の演技。これぞ女優魂というものを感じました。

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