娘・妻・母

東京の坂西家には、母のあき、雄一郎と和子の長男夫婦にその息子、さらにぶどう酒会社に勤める末娘の春子が住んでいる。今はそこに日本橋の旧家に嫁に行った長女の早苗がやってきていた。坂西家にはさらにカメラマンの次男・礼二、お嫁に行った保母の薫と5人の子供たちがいた。そんな坂西家に連絡が入り、早苗の夫が旅行中のバス事故で亡くなったという…

原節子をはじめとした豪華な女優陣で、女と家族の関係を描いた力作。それぞれの女性がそれぞれの生き方を見事に演じ見ごたえのある作品になっている。

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東京オリンピック

1964年、東京で開かれた第18回オリンピック。日本がこれまでに経験したことのない規模で行われたスポーツイベントを巨匠・市川崑が記録し、映画化した作品。聖歌がギリシャで点火されるところから、開会式、各競技、閉会式まで、時に全体を俯瞰し、時にひとりの人間を追い、余すところなく伝えた3時間近い力作。

公開されたのは、オリンピックが開催された翌年だったが、人々の記憶に新しかったこともあって、ドキュメンタリー映画としては空前の観客動員を記録し、大きな話題となった。

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夜の終りに

社会主義の暗さを感じさせない万国共通の青春の煮え切らなさが秀逸

Niewinni Czarodzieje
1961年,ポーランド,87分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・アンジェウスキー、イエジー・スコリモフスキー
撮影:キシシュトフ・ウイニエウィッチ
音楽:クリシトフ・コメダ
出演:クデウィシュ・ウォムニッキー、ズビグニエフ・チブルスキー、クリスティナ・スティプウコフスカ、アンナ・チェピェレフスカ

 スポーツ医でジャズドラマーのバジリはガールフレンドのミルカに冷たく当たる。その夜、バジリと飲んでいた友人のエディックが一人の女に目をつける。エディックが連れの男をだましてその女ペラギアを連れ出したバジリはペラギアに振り回されながら、彼の部屋に2人でたどり着く。
 アンジェイ・ワイダが“抵抗三部作”に続いて撮った青春映画。シンプル表現が秀逸で若きワイダの才能を感じさせる作品。

 電気かみそりにテープレコーダをもつ身なりのいい若い男、当時のポーランドの状況はわからないが、なかなか羽振りのいい男のようだ。その男バジリはガールフレンドの呼びかけに対して居留守を決め込み、やり過ごすとドラムスティックを持って出勤する。職場はボクシング上で仕事は医師らしい。そこに勤める看護婦とも過去に何かあったらしく、思わせぶりな会話が交わされる。

 夜はジャズバンドにドラムで参加、医師でミュージシャンなんていかにももてそうだし、顔もハンサムで、そのイメージどおりプレイボーイのようだ。何の説明もないが、ワイダはそのあたりをうまくさらりと描く。特別個性的な表現があるわけではないが、無駄な描写もなく着実に物語が構築されていっていると感じることができる。

 その後はプレイボーイであるはずの彼がペラギアに振り回されてしまうのだが、そこで展開される哲学的な話や煮え切らなさに青春映画の輝きを感じる。夜が更けてから翌朝にいたるまでの2人のやり取りというのは国や時代を超えてどの若者にも通じる感覚を持っている。それがワイダの才覚なのだろう。

 アンジェイ・ワイダの監督デビューとなった“抵抗三部作”はそのメッセージ性の強さが際立って、ワイダの監督としての力量や作家性はその陰に隠される形になった。それでも彼の映像の冴え、表現のうまさというのは感じさせたが、この作品からは彼の簡潔な表現のよさが感じられる。それは青春映画というシンプルなものになったことでディスコースが明確になったということであると同時に、“抵抗三部作”という労作を通して彼の表現力が増したということでもあるだろう。アンジェイ・ワイダはデビュー・シリーズである“抵抗三部作”によって有名だが、その直後に撮られたこの作品は彼の才能がそこにとどまらないことを明確に語っている。

 リアルタイムにこれを見た人はこれからの彼の作品にわくわくするような予感を感じたのではないか。50年後に彼の作品を見直す私でさえそう感じるのだから。あとは社会主義という体制が彼の才能と表現にどう影響してくるのか。

 この作品の時点ではその体制の不自由さがわずかに影を落としているだけだが、彼が体制と戦っていかねばならないという予感は感じさせる。ヒロインのペラギアはおそらく“自由”の暗喩であるのだろう。それは幻影のように目の前にちらりちらりと表れるけれどなかなか手に入らないものである。最後に“アンジェイ”という本名が明かされるバジリはまさしくワイダの化身なのだ。

小さな兵隊

Le Petit Soldat
1960年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:モーリス・ルルー
出演:シェル・シュボール、アンナ・カリーナ、アンリ=ジャック・ユエ、ポール・ブーヴェ、ラズロ・サボ

カメラマンのブルーノはアルジェリアの独立を阻止しようとする諜報組織OSAに属し、スイスのジュネーヴにいた。ブルーノは友人にヴェロニカという女の子を紹介され、ブルーノは彼女をモデルにして写真を撮ろうと考える、同じころ、OSAは彼にスイスのジャーナリストであるパリヴォダの暗殺を命ずる。

『勝手にしやがれ』で世界の映画界に衝撃を与えたゴダールの長編第2作。当時フランスが抱えていたアルジェリア問題に真正面から切り込んだ社会派作品だが、展開はスパイサスペンス仕立てで、ゴダールにしてはわかりやすい。ゴダールの恋人だったアンナ・カリーナのデビュー作でもある。

ゴダールはやはりすごい。そしてアンナ・カリーナはやはりかわいい。

『勝手にしやがれ』は確かにすごい。しかし、ゴダールのゴダールとしての始まりはこの映画なのかもしれない。『勝手にしやがれ』はひとつの出来事であり、今となってはある種の記念碑であり、古典であり、ファッションであり、そしてもちろん面白い。しかし、『勝手にしやがれ』のゴダールらしさとはなによりもその新しさにある。ゴダール映画は常に新しい。今見ても新しいが何よりも時代の先を行っているわけ。『勝手にしやがれ』がどう新しかったのかは今となっては実感することはできないし、他にも新しい映画はあったはずだ。それでもゴダールが持ち上げられるのは彼が常に新しいものを作り続けているからだ。私の理解は越えてしまっているものが多いけれど、それでもこれまでのものとは違う何かがそこに表現されていることは感じ取ることができる。それがゴダールなのだろうと私は思う。そのような意味では『勝手にしやがれ』はもっともゴダールらしい作品のひとつであるといえる。

しかし、いまゴダールの作品をまとめてみることができ、それを比較対照することができるようになってみると、ゴダールのスタイルというのは『勝手にしやがれ』よりむしろこの『小さな兵隊』にその素が多く見られる気がする。アンナ・カリーナが出ているというのももちろんだけれど、モノローグの使い方、本や文字の使い方などなどなど。

映画というものを映像に一元的に還元するのではなく音や文字といったさまざまな要素の複層的な構造物として提示する。それがゴダールのスタイルだと私は思っている。映像も単純な劇ではない多量の情報をこめることができる映像にする。それがゴダールなのだと私は感じる。たとえば『中国女』は大量の文字を盛り込んだ映画、ゴダールが特にこだわりを見せるのは「言葉」だ。それもゴダールの特徴である。

この映画はモノローグという形で多量の「言葉」を発していく。そして美女は微笑んでいる、むくれている、そっけなくして見せる。ゴダールを語ると、その言葉が断片的になってしまうのは、ゴダールについて語る言葉もある意味ではゴダールの一部だからだろうか。

ラストシーンの唐突さもなんだかゴダールらしい。見るものに隙を見せないとでも言えばいいのか、「うんうん」といって映画館を出るのではなく「え?」といって映画館を出ざるを得ないように仕向ける。それもまたゴダールなのだと思う。

ただ、この映画には「音」がかけている。ゴダールの映画で非常に効果的に使われる音。効果音やBGMという概念を超越したところで作られ、使われる音、あるいは静寂。『はなればなれに』は音/静寂が非常に印象的な映画だった。その音がこの映画では意識されない。どのような音があったか。印象的だったのはブルーノとヴェロニカがバッハ・モーツアルト・ベートーヴェンについて語るところくらい。

ゴダールは音を獲得し、着実にゴダールになっていく。この次の作品は『女は女である』で、まだそれほどの複雑さはない。この作品にもそれほどの複雑さはない。

みだれ髪

1961年,日本,93分
監督:衣笠貞之助
原作:泉鏡花
脚本:衣笠貞之助
撮影:渡辺公夫
音楽:斎藤一郎
出演:山本富士子、勝新太郎、川崎敬三、阿井美千子

 板前の愛吉が警察官に連れられて、喧嘩の巻き添えで怪我をさせてしまった深川の材木問屋の娘夏子をおぶって病院にやってきた。夏子は治療に当たったその病院の若先生・光紀と恋に落ち、愛吉は夏子を神様に見立てて禁酒の願をかけ、足繁く病院に見舞いに通う。退院後も夏子と光紀は会うようになったが、光紀には親が決めたいいなずけがいた…
 泉鏡花の『三枚鏡』を衣笠貞之助が映画化。泉鏡花原作なので、さわやかな恋物語になるわけもなく、話はどろどろ。そのどろどろさかげんにはまっていく山本富士子と勝新太郎がとてもよい。

 いいですね、60年代、大映、このどろどろさ。衣笠貞之助はこれ!という代表作はありませんが、50年代を中心になかなか質の高い作品をとっている大映の職人監督の一人です。スターシステムというほどではないですが、この作品は山本富士子と勝新太郎を中心とした映画なので、この二人を引き立てるようにオーソドックスな映画を作り上げています。
 60年代初めといえば、「悪名」シリーズと「座頭市」シリーズが始まったころで、まさに勝新太郎がスターダムに上りつめるころ。さすがにこういう渋い作品でもいい味出してます。山本富士子のほうは、もうすでにスターの地位を確立していたころでしょうか。しかし、この2年後フリーになった山本富士子は大映の恨みを買い五社協定(大手五社が新しい映画会社への役者流出を防ぐための協定)を口実に映画界から追放されてしまう運命にあったのです。しかもこの二人は同い年。そんなことも考えながら映画を見ると、なかなか面白いものもあります。
 大映というのはどうもやくざ風情の映画会社で、永田雅一はそもそも任侠系の人だという話も聞いたことがあります。それは一面では義理がたくて、利益第一ではないという利点もありますが、他方で非合理というか山本富士子のような不条理な被害者も出てしまう。でも、やくざとか任侠系の映画に面白いものが多いのも確かで、この映画の勝新太郎もかたぎではあるけれど、義理人情のやくざ風情が映画の重要な鍵になっている。
 いろいろありますが、この映画は面白いです。山本富士子がぐっとくるものはいままで見た中ではなかったんですが、これは結構きました。20代おわりくらいからようやく役者としての味が出てきたといわれるので、このあたりが一番あぶらの乗っていたころなのかもしれません。山本富士子ファンは必見。
 あとは、泉鏡花はやはり大映の作風にあっているということでしょうか。始まりから終わりまで油断させないドロドロ感、これがなかなかいいですね。

 大映と山本富士子といえば、逸話をもうひとつ。あの小津安二郎が『彼岸花』をとるときに、どうしても山本富士子を使いたいとおもい、大映にオファーしたところ、大映の条件は「大映で一本映画を撮る」というものでした。それで撮ったのが小津唯一の大映作品『浮草』です。これは近々見る予定。『彼岸花』もみよっと。