メキシコ万歳
Que Viva Mexico !
1979年,ソ連,86分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリ-・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
撮影:エドゥアルド・ティッセ、ニコライ・オロノフスキー
音楽:ユーリー・ヤクシェフ
出演:メキシコの人たち
映画はアレクサンドロフの解説から始まる。エイゼンシュテインとティッセと3人でメキシコで映画を撮った話。50年間アメリカにフィルムが保管されていた話。そのあと映画が始まり、メキシコの歴史を語る映画であることが明らかにされる。この映画は現在の先住民達の生活を描く前半と、独裁制時代に辛酸をなめた農奴達を描いた後半からなる。
ロシア革命とメキシコ革命が呼応する形で作られた革命映画は、エイゼンシュテインが一貫して描きつづけるモチーフをここでも示す。メキシコの民衆に向けられたエイゼンシュテインの眼差しがそこにある。
私の興味をひきつけたのは後半の農奴達を描いたドラマの部分だ。それはラテン・アメリカに共通して存在する抵抗文学の系譜、映画でいえばウカマウが描く革命の物語。最後にアレクサンドロフが言うようにこの映画がその後の革命までも描く構想であったということは、この映画がメキシコ革命を賛美するひとつの賛歌となることを意味する。
もちろんエイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」から一貫して革命を支持する立場で映画を撮ってきた。だから、同時代にメキシコで起こった革命をも支持することは理解でき、この映画がアメリカでの話がまとまらなかったことを考えれば当然であるとも思える。そして、このフィルムが50年近くアメリカからソ連に渡らなかったことも考え合わせれば、米ソ(と中南米)の50年間の関係を象徴するような映画であるということもできるだろう。
内容からしてそのような政治的な意図を考えずに見ることはできないのだが、それよりも目に付くのは不自然なまでの様式美だろう。最初の先住民達を描く部分でもピラミッドと人の顔の構成や、静止している人を静止画のように撮るカットなど、普通に考えれば不自然な映像を挿入する。それはもちろん、その画面の美しさの表現が狙いであり、そのように自然さを離れて美しさを作り出そうとすることがエイゼンシュテインの革新性であり、そのような手法はいまだ革新的でありつづけている。
そのような革新的な美しさを持つ画面と、革命的な精神を伝える物語がいまひとつ溶け合っていないのは、エイゼンシュテイン自身による編集でないせいなのか、それともその違和感もまた狙いなのかはわからないが、様式美にこだわった画面が映画の中で少し浮いてしまっていることは確かだ。それは他とは違う画面が突然挿入されることによって物語が分断されるような感覚。これはあまり気持ちのいいことではない。もちろんその挿入される画面は美しいのだが、もし現在の映画でこのような映画があったら、ことさらに芸術性を強調するスノッブな映画というイメージになってしまったかもしれない。
今となってはいくら願ってもかなわないことだが、未完成のの部分も含めたエイゼンシュテイン自身による完全版が見てみたかった。映画もまたその歴史の中で取り返しのつかない失敗を繰り返してきたのだということを考えずにいられない。