木と市長と文化会館/または七つの偶然

L’Arbre, le Maire et la Mediatheque ou les Sept Hasards
1994年,フランス,111分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:パスカル・グレゴリー、ファブリス・ルキーニ、アリエル・ドンバール

 ナントから少し離れた農村で市長を務めるジュリアンは国民議会に打って出ようとする一方で、地元の市に文化会館を立てようと計画していた。しかし、恋人のベレニスはあまり賛成していない。また、小学校教師のマルクは建設予定地の巨木を含めた風景を壊すことに強く反対していた。
 ロメールといえば恋愛というイメージがつきまとうが、この映画は少し恋愛からは離れたところで物語が展開される。しかし、このような論争的なことを取り上げるのもロメールの一つの特徴であり、恋愛も全くおざなりにされるわけではない。

 ロメールの映画には、哲学的というか論争的な会話が必ずといっていいほど出てくる。恋人同士の間であったり、友達同士の間であったり、友達の恋人だったり、パターンはいろいろだけれど、言い争いというか議論がどこかで展開される。この映画はその議論の部分を映画の中心に据えて、全体をまとめた映画。恋愛はいつもとは逆に部分的なものになる。
 そのような論争的なことが物語の中心となるので、自然と映画全体が群像劇じみてくる。ロメールの映画というと2・3人の中心的な登場人物がいるというものが多いイメージ。その点でこの映画は他のロメールの映画と違うといえるかもしれない。
 しかし、ロメールはロメール。単純な映画であるにもかかわらず、いろいろな仕掛けがあきさせない。始まり方もなかなかステキで、そこで出てきた「もし」(フランス語では“si”)が各チャプター頭のキャプションが“si”で始まっているのがおしゃれ。

 この映画を見て、エリック・ロメールはゴダールとは別の意味で天才的だと実感する。ゴダールの天才は見るものを圧倒するものだけれど、ロメールの天才は見るものを引き込むもの。ゴダールの映画を見ると、よくわからないけれどとにかくすごい、という印象に打たれる。ロメールの映画を見ると、必ず何かが引っかかって、するすると映画を見てしまい、終わってみれば面白かった、という印象が残る。そのさりげなさが天才的。
 やはりヌーヴェル・ヴァーグはすごかったということか。ロメールとかゴダールとかヴァルダの映画を見ていると、世界はいまだヌーヴェル・ヴァーグを超えられてないんだと思わされてしまいます。

レネットとミラベル/四つの冒険

Quatre Aventures de Reinette et Mirabelle
1986年,フランス,95分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ソフィー・マンティニュー
音楽:ロナン・ジレジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:ジェシカ・フォルド、ジョエル・ミケル

 フランスの田舎道で自転車がパンクしたミラベルはたまたま通りかかった女に自転車屋の場所を聞く。その少女レネットは自転車やは10キロ先だといい、自分が直すからといって、ミラベルを家に招き入れる。夜明け前の一瞬に訪れる完全な静寂(青の時間)の話をするレネット、その時間を味わうためミラベルはレネットの家にとまることにした。
 この話を皮切りとした4話の断章。レネットとミラベルの対照的なキャラクターに、ロメールらしい軽妙な語り口と、どこか哲学じみた会話。いかにもロメール、これぞロメール。

 この映画はレネットとミラベルの対照的なところが映画のミソになっていることは間違いない。最初の登場からしてミラベルはスタイリッシュで、レネットは田舎臭く、ダサい。ミラベルは冷静なインテリで、レネットは感情的な独学の芸術家。そんな二人が出会って程なく仲良くなってしまうというところに疑問は覚えるが、ヴァカンスで出会ってすぐ仲良くなるというのはロメールの一つのパターンで、そのあたりの持って行き方は巧妙なので、それほど違和感もなく受け入れてしまう。ミラベルはインテリで、民族学をやっている大学院生だが、そのプロフィールは『夏物語』のマルゴを思い出させる。
 そんな二人だが、二人に共通するのはいい人というかヒューマニストというような側面だ。しかし、そのヒューマニスト的な面でも意見が一致しないことが、「物乞い、万引き、ペテン師の女」という断章で明らかになる。ここの会話は一種哲学的なもので、この哲学的な会話というのもロメールの一つのパターンというか特徴。真っ先に思い出したのは『春のソナタ』の食卓の会話。これにとどまらず、物語とあまり関係なく哲学的な話が挟まれることが多い。それは軽妙でさらりと流れてしまいそうな映画にとって一つのスパイスとなる。
 そういえば、『春のソナタ』も二人の女の子が出会ってすぐに仲良くなる話だった。『春のソナタ』は89年なので、80年代後半のロメールの一つの物語のパターンだったのかもしれない。かなりの数の映画を作り出しているロメールは、一種のパターンを持ち、いくつも見ていると飽きてしまいそうだが、なぜか飽きないのは、他の映画を連想させたり、見ている人を哲学的な思弁に引き込んだり、見るたびに違うところに引っかかるような仕掛けを用意しているからだろう。なんだか、エリック・ロメールの映画だけで半年くらい過ごせそうな気がする。
 ただ、あまり感想が浮かんでこないというのも正直なところで、なんとなく漫然と見てしまうのがロメールの映画なのでした。

パリのランデヴー

Les Rendez-vous de Paris
1994年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:パスカル・リビエ
出演:クララ・ベラール、アントワーヌ・バズラー、ベネディクト・ロワイアン

 エリック・ロメールがパリを舞台に3つの恋を描いたオムニバス作品。
 第1話は「7時のランデヴー」。恋人に浮気の疑いを抱いた大学生を描いた作品。第2話は「パリのベンチ」。恋人と一緒に暮らしながら違うタイプの男とデートを重ねる女性の姿を描く。第3話は「母と子 1970年」。ピカソの「母と子」が恋物語を展開させる。
 どの話もパリの風景がふんだんに出てきて、ちょっとした旅行気分が味わえる小品たち。

 どのエピソードも何か言っているようで何もいっていないような感じ。2番目のエピソードがちょっと毛色が違うような気がするけれど、どれも結局のところ漠然と「恋」というものを描く。一つの映画でひとつの恋を描くのではなく、3つの恋を完全に独立したエピソードで描くことで浮かび上がってくることもある。
 単純にひとつの恋を描く映画、これはつまり「恋」をモチーフとしたひとつの単純なドラマを描いているということ。それは単純なひとつのケースとして描きたいことが描けるし、そこから何か恋の全体像が浮かび上がってくる必要はない。
 複数の恋をひとつの物語で描く映画、これはおよそ人間関係が複雑であったりして物語として面白くなる。ここではとりあえず「恋」というものに絞って考えるなら、このような複数の恋をひとつの物語で描く映画では概してそれぞれの恋の差異が浮かび上がってくる。それは登場人物が複数の鯉の中からひとつを選んだり、選ばなかったりということがおきるからで、そこで生じる比較が「恋」についての差異を浮かび上がらせてゆく。
 複数の恋を複数の物語で描く映画。これはこの『パリのランデヴー』のような映画のことだけれど。この場合、それぞれの恋の関係性は特にないので、あまり比較にはならない。共通点や違いがあったとしても、それが差異として浮かび上がってくるというよりはそれも含めて「恋」の全体像が浮かび上がってくるという感じ。
 と、唐突に「恋」に関する映画を分析してしまいましたが、このようなことがいえるのは何も「恋」に限ったことではなく、映画にテーマを読み取るとするならば、そのテーマについて描く描き方一般に言えることだと想います。
 だからどうしたというわけでもないですが、パリといえば「恋の街」ということで、そんなことを考えてみた次第であります。

恋の秋

Conte d’Automne
1998年,フランス,112分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
出演:マリー・リヴィエール、ベアトリス・ロマン、アラン・リボル、ディディエ・サンドル、ステファン・ダルモン

 マガリは夫と死に別れ、二人の子供も独立し、一人で親から引き継いだブドウ畑でワインを造っていた。親友のイザベルがある日マガリをたずねると、マガリは息子レオの恋人のロジーヌと一緒にいた。そのロジーヌは哲学の先生のエティエンヌと分かれてレオと付き合い始めたばかりだった。孤独に暮らすマガリに男の人を世話しようとイザベルとロジーヌはそれぞれ考えを持っていて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の最後の作品。主人公の年齢が高いのは人生の「秋」という意味なのだろうか。

 最初のシーンで遠くのほうに移る工場の煙突。田舎の風景の中でなんとなく浮いているその煙突は物語が進んでから人々の話題にのぼる。映画というのは、そういう細かい部分の「気づき」が結構重要だと思う。もちろん映画自体のプロットとか、登場人物のキャラクターとか、メインとなるものはもちろん重要なのだけれど、それだけではただの物語としての面白さ、ドラマとしての面白さになってしまう。それは、映画としての面白さと完全に一致するものではないような気がする。本当に面白い映画とは、一度見ただけではすべてを見切れない映画であるような気がする。1時間半や2時間という時間で捉えきれないほどの情報をそこに詰め込む。
 この映画はそれほど情報量が多いわけではないけれど、その煙突のようなものがメインとなるドラマの周りに点々とある。その点は映画的な魅力となりうるものだと思う。たとえば、イザベルとジェラルドが初めて会ったとき、出されたワインのラベルが画面にしっかりと映る。こういうのを見ると「ん?後々なんか関係してくるのかしら?」と思う。具体的にいえば、「マガリの作ったワインかしら?」などと思う。実際、このラベルは後々の話とはまったく関係なかったけれど、そういう周囲のものにも注意を向けさせる撮り方というのは映画にとって重要なんじゃないかと思ったりする。
 さて、これは「四季の物語」最後の作品で、4本撮るのに10年もかかってしまったのですが、全部見てみると、結局のところどれも恋の話で、結局いくつになっても恋は恋。ジェラルドが言った「18歳のときのように怖い」というセリフがこのシリーズをまとめているかと思われます。最後の作品で少し年齢層が高めの物語を持ってきたというのは、ロメールなりのそういったメッセージの送り方なんじゃないかと思ったりもしました。

冬物語

Conte d’Hiver
1991年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リュック・パジェス
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:シャルロット・ヴェリ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリエッシ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリク

 夏のビーチで出会ったフェリシーとシャルル。夏が終わり、シャルルはフェリシーの住所を受け取り、2人はそれぞれの居場所へと向かった。5年後、美容師をしながら、別の男と付き合うフェリシー、美容院の主人から結婚を申し込まれていた。実はフェリシーは住所を書き間違え、シャルルからの便りはついに来なかったのだ。そのシャルルとの間の娘エリーズはもう4歳になる。
 ロメールの四季の物語の2作目。冬のパリは寒そう。劇中劇として登場するシェークスピアの『冬物語』が物語の下敷きになっているらしい。

 なんとなく「夏物語」とついになった話のような気がする。もちろん、「夏物語」の方が後に作られたので、順番は逆にしても2つの作品の関係は深そうである。「夏」のほうは1人の男と3人の女、「冬」は1人の女と3人の男。「冬」の冒頭の海の風景は「夏」の舞台となった海と同じように思える(ちがうかも)。結局どちらも、遠くにある望みの薄い恋をあきらめて、身近にある恋を選ぶことができるのか…というお話。まさにロメールっぽいというところですね。
 そういう話だとどうしても、物語の方に引きずられてしまいがち。あるいはそれが映像や技巧を意識させずに見せるロメールのうまさなのか。
 この映画でもうひとつロメールらしいと思うのは「輪廻」の話。「春のソナタ」では超越論の話が出てきましたが、今回は「輪廻」の話。パスカルとかいろいろな人が登場しますが、よくわからない。見ている人の多くはフェリシーの立場でその哲学話を見るのでしょう。だからその会話が意味しているところがよくわからないと思う。これは単純にわからないということではなくて、このわからないという感想を共有することでフェリシーの立場に近づくことができるということも意味する。「インテリにはなりたくない」というフェリシーの気持ちが共感でき、そんなわけのわからない会話の中に感覚的な意見で切り込むフェリシーに拍手を送りたくなる。この主人公への共感という感覚はロメールの映画の特徴だと思います。「夏」の時にも書きましたが、映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって映画を経験するそんな映画だと思う。
 やはり「四季の物語」と題されてシリーズ化されているだけに、どの作品もどこか似た雰囲気を持っていますね。

春のソナタ

Conte de Printenmpsr
1989年,フランス,107分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リック・パジェス
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル

 ジャンヌは研修のためパリにやってきた従妹に部屋を貸し、自分は出張中の彼氏のアパートで過ごしていた。従妹が帰るはずの日、従妹の部屋に行くと従妹とその彼氏がまだ家にいた。従妹の滞在が伸び、ジャンヌは彼の部屋に戻ることに。その夜、気が進まない友だちのパーティーでに行ったジャンヌはそこでナターシャという少女に出会い、その娘の家に泊まることになった…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の第一作。恋愛を巡る心理の行き来が興味深く、少々哲学的というフランス映画らしい物語。

 なんてことはないはないですが、考えていることをすぐに言葉にして表現するというのがなんとなくフランス映画っぽい。それも感情的な言葉ではなく、思弁的な言葉をさらりといってしまう。それが恋愛に関わることであってもそう。この映画も物語を進めていく中心にあるのは会話であって、登場人物たちが発する言葉である。
 言葉と映画の関係について考えてみる。映画はやはり映像の芸術で、エンターテイメントだから、言葉は不可欠な要素ではないと思う。だからサイレント映画だって面白い。しかし、このように言葉が重要な要素として使われるのも面白い。それはヌーヴェル・ヴァーグに特徴的な話なのだろうか?(不勉強ですみません)確かにゴダールも言葉に非常に意識的な作家だし、ヌーヴェル・ヴァーグからなんだろうなという気もする。
 言葉を使うことで映画は曖昧になる。受け手に任される要素が大きくなる。それは意味の伝わり方が映像よりも曖昧だから。受け手の素養によって伝わり方が大きく違ってくる。たとえばこの映画ででてきた「超越的と超越論的」というものの違いを理解できる人がどれだけいるのか? わからないものとして無視するか、当たり前のように理解するか、中途半端に理解していてそこでつまずくか。私はそこでつまずいて映画においていかれてしまいましたが、それで映画の見え方が違ってくると思う。
 映像だってもちろん受け手によって捉え方は違うのだけれど、イメージのままで植え付けられる分、個人差が少ない気がする(あくまで気がするだけ)。なので、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画のちょっと難しいものというイメージもまんざら間違っていない気がする。それは見る人によって見え方が違ってくるもの、イコール定まった答えがないものということ。本当はその方が自由でやさしい映画であると私は思うのですが。

夏物語

Conte D’Ete
1996年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:フィリップ・エデル、セバスチャン・エルムス
出演:メルヴィル・プポー、アマンダ・ラングレ、オーレリア・ノラン、グウェナウェル・シモン

 ガスパールはバカンスを過ごすため、友人の家を借りてディナールへやってきた。街をぶらぶらとしてクレープ屋へよった彼は翌日一人海へ行き、そのクレープ屋でバイトをする女の子と出会い、仲良くなる。どことなく人待ち顔のガスパールは実は思いを寄せるガールフレンドを探していて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」シリーズの3作目。1人の男と3人の女を描いたロメールらしいラブ・ストーリー。

 エリック・ロメールの映画というと、私ははずれはないけれど大当りもないというイメージがあります。しかしそんな中でこの映画はかなり好きなもの。四季の中でも一番でしょう。
 ロメールの作品は遠目のショットが多い。大体が人物の全身がすっぽり入る感じ。だから画面の大部分を占めるのは風景ということになり、それがロメールらしい味わいとなる。この映画でも、印象に残るのは、海・空・浜・山、人物よりは風景だと思う。それがロメールの爽やかさ、おしゃれな感じにつながっているのでしょう。
 さて、そんなことよりもこの映画が素晴らしいのはその詩情。どうにも優柔不断な男であるガスパールのキャラクターは男なら誰もがどこか引っかかる自己像だと思う。女性でもそんな男にいらいらしつつ、その恋愛劇にあこがれてしまうようなそんなみずみずしさ。誰もが自分の体験と重ね合わせることができるような物語。そんな憧れとか思い出とかそんな形で自分にひきつけることができる物語であること、それが素晴らしいところ。
 多くの映画はそこに没入することによって体験するものだけれど、ロメールの映画は逆に映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって経験できるもの。そのような映画が与えるのは非日常的な経験によって日常生活を乗り越えることではなく、直接的に自分の日常に何かを加えること。自分自身を(無意識にでも)内省することによって、何らかの活力とか意欲とかそのような動力が生み出されること。そのようなことだと思います。多分。なんとなく見ると元気になる気がします。

満月の夜

Les Nuit de la Plene Lune
1984年,フランス,102分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー
音楽:エリ&ジャクノ
出演:パスカル・オジェ、チェッキー・カリョ、ファブリス・ルキーニ、クリスチャン・ヴァディム

 パリ郊外の家、ルイーズは恋人のレミと暮らしているが、その夜の外出のことで意見が合わない。パーティーに行きたくないレミと、朝まで遊んでいたいルイーズ、ルイーズは来なくていいというが、レミはいっしょに外出するといってきかない。話がつかないままルイーズは出かけ、友人のオクターヴとパリの「別宅」に行く。その夜レミはパーティに来るが、つまらなそうにしてすぐに帰ってしまう。
 序盤から議論が飛び出すロメール流の理屈っぽい恋愛映画。最初にエピグラフとしてでる「二つの女を持つものは魂を失い、二つの家を持つものは理性を失う」という格言が非常に示唆的だ。

 ロメール映画の登場人物たちは極端へとは行かず、常に常識の範囲にとどまり、その中で揺れ動く。だからとても現実味があり、身近なものと感じられるのだけれど、それは逆に劇的さとは縁がないということでもある。だから、どの映画を見てもなんだか似た印象を受けるわけだが、それでもその中に秀逸な映画もある。
 しかし、この映画はというと、ロメール映画の中では並。もちろん映画としての質はよいが、ロメールを見慣れてしまうと、いつものことという感じで新鮮な驚きはなくなってしまう。主人公のルイーズの顔は非常に印象的だが、他の登場人物たちは今ひとつ魅力的でなく、あまりに日常的過ぎるという印象がある。そして、冒頭のエピグラフがあまりにうまく映画を表現しきってしまっているので、映画はただそれを映像によって表現しているだけになってしまっているような印象も受ける。それでも登場人物たちの心理の機微というようなものはさすがロメールの描写力という感じがするが、なんだか全体に冷たい印象を受けるのは、レナート・ベルタのカメラのせいだろうか。

 とにかくそれは想像できるロメールの域を出ず、あるいはあまり予想通りに映画が展開していく。それが劇的さのないロメール映画の弱点ではあるのだが、それは新聞の4コマ漫画とか、週刊誌の連載コラムとか、そのようなものに似て、それ自体が日常になりうるものという気もする。
 もちろん、ロメールの映画が日常と呼べるほどロメールの映画を見ているわけではないのだが、しばらく時間をあけてみてみても、それはなんだかなじみの風景というか、いつもの経験という感じがする。そのあたりがロメールの魔術というか、うまさということでしょう。
 それはまた、似た映画の無数のバリエーションを展開しているということでもあり、それはつまり見る人によって好みは別れるということでもある。好みが分かれるということは、無数にあるどれもが質がいいからこそ可能なことで、しかもロメールの映画を見てきた文脈によって映画の受け取り方もかわる。ロメールの作品とはロメールのほかの作品を想起せずには見ることのできない映画で、ということは、見ている人がそれまでにどのロメールの映画を見てきたのかということが映画を味わう上で重要なポイントになってくるということである。だから、前に見た作品も重ねてみてみると、その味わいは変わって、好みも変わってくる。
 それはつまり、いつまでも映画(群)を見続けることができるということで、この映画が今のわたしにとってはそれほどヒットしてこないものであったとしても、エリック・ロメールの偉大さはいくらも損なわれないということだ。