黒の報告書

1963年,日本,94分
監督:増村保造
原作:佐賀潜
脚本:石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:宇津井健、叶順子、神山繁、殿山泰司、小沢栄太郎

 社長が自宅で殺されるという殺人事件。この担当になった城戸検事は凶器も判明し、指紋も出て、簡単な事件だと考えた。思い通り簡単に容疑者を捕まえ、尋問を開始するがなかなか自白をしない。そしてそこに現れたのは腕利きとして知られる弁護士山室だった。
 「黒」シリーズ、宇津井健シリーズの最初の作品。増村得意の法廷もので、重厚なドラマ。

 被疑者がいて、いかにも悪徳っぽい弁護士がいてという設定で、どう考えても城戸検事に肩入れせざるを得ない設定の作り方なので、このドラマはとてもいい。映画に対してはなれた視線で見ると、こういうドラマチックなドラマは醒めてしまうし、特に斬新なものがあるわけでもないので耐えがたくなってしまうが、映画の中に簡単に入り込めると、眉間にしわを寄せながら次の展開へと心はあせる。 ということなので、映画の冷静な分析など望むべくもなく、叶順子はきれいだなとか、宇津井健は眉毛つながって見えるなとか、そんな感想しかなく、これが最初からシリーズ化される予定だったとしたならば、「これからどうなるんだ城戸検事」と思わせる終わり方は見事だなということぐらいしか言いようがない。
 ひとつ思ったのは、殿山泰司のすごさ。最近「三文役者」という映画をやっていて、殿山泰司を竹中直人が演じていました。すっかり見逃してしまいましたが、もともと殿山泰司は知っていたもののそれほど思い入れがなかったというのもあります。しかし、この作品の殿山泰司はすごい。映画の中でひとり浮くぐらい味がある。水をいっぱい飲むだけで、「何かある」と思わせる演技をしています。これが名脇役といわれる所以かとはじめて実感したわけです。ほかに増村に出ていたので思い出すのは、「清作の妻」くらいでしょうか。とにかく、ようやく殿山泰司再発見でした。

女の一生

1962年,日本,94分
監督:増村保造
原作:森本薫
脚本:八住利雄
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:京マチ子、田宮二郎、東山千栄子、小沢栄太郎、叶順子

 明治、日露戦争中の東京で町外れのぼろ屋に住むけいは両親をなくし、叔父の家で暮らしていた。しかしそこでけいはこき使われ、ついには家を追い出されてしまった。途方にくれ、座り込んでしまったけいの前の大きな家では、にぎやかな誕生祝が催されていた。
 激動の時代を生きた「女の一生」。増村にしては無難なドラマというところ。

 1時間半の映画で一生を語るというのはなかなか難しいことであるわけで、その焦点をどこに置くのかというのが問題になってくる。「女の」一生と名付けられたこの作品はもちろん、女としての生き方に焦点が当てられるわけだけれど、時の経過とけいの「女」としての生き方の変化を描ききるのは増村でも難しかったのかもしれない。新聞を使ってイメージで時代性を表すのは非常にうまい方法で、その分物語に集中できはした。
 だから、前半、人生がめまぐるしく展開していく部分では非常にスピード感が生まれいいのだけれど、逆に後半の穏やかな流れの中の心理の機微のような部分を描くにはそのスピード感があだになったかもしれない。ひとつの時代、ひとつの単元のその生き方の感触を味わいきる前に次に行ってしまう。そんな印象が残った。しかし、あまりにスピード遅く、深く考える余地を与えてしまうとそれはそれで映画としての勢いがなくなってしまうので面白くない。そのあたりのスピード感の調整というものが難しかったのかもしれない。
 増村の映画は短い時間に膨大な量の情報を詰め込み、観客に考える暇を与えない映画が多い。振り返ってみると、あんなこともこんなこともあったと思うのだけれど、見ている時点ではただ圧倒され、映画が流れ込んでくるに任せるしかない。特に初期の映画にはそういう傾向が強くそれが面白い。これが後期の映画になるとむしろ情報を削って画面に緊張感をもたせるような方法で観客をひきつける映画が出てくる。これは削られた情報のどれもが逃してはいけない情報であるように見せることで、観客に緊張を強いることで考える暇を与えない。
 この2つの方法の狭間にあるのがこの映画なのかもしれない。この2つの方法をひとつの映画の中でうまくスイッチできれば、ものすごい映画になったのかもしれないけれど、まだ熟しきれていない緊張感が映画の後半の印象を弱めてしまったということなのだと思う。

うるさい妹たち

1961年,日本,98分
監督:増村保造
原作:五味康祐
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:川口浩、仲宗根美樹、江波杏子、岩崎加根子、永井智雄

 大会社の副社長である山村は夜中1人車を走らせていた。するとそこに1人の少女が。乗せてくれと迫る少女に山村は思わず首を縦に振ってしまう。すると暗がりから何人もの若者が現れた。これをきっかけに、その少女達と山村に加え、山村の娘と秘書が絡み合う物語が始まる。
 60年代当時「六本木族」と呼ばれた若者達を描いたスピード感のある作品。都市の若者を描いたという意味で同時代のヌーヴェルバーグと対比されることの多い作品でもある。

 映画は物語ではない。映画は何かをかたるものでは必ずしもない。それはヌーヴェルバーグのメッセージであり、新しい映画が出発する原点となったものだろう。映画を見て「結局何なんだ」と問うてはならない。いや違う。問うのは自由だけれど、答えを作り手に求めてはいけない。解釈は見る側がするべきものであって、あらかじめ答えは用意されていない。
 そんな映画の意味合いがこの映画の観後感(読後感みたいなものね)にはある。「だから何なんだ」と問いたいけれど、問うてはいけないといわれているような感じ。それはこの映画が新しくはあるけれど圧倒的ではないからだろう。ゴダールやトリュフォーの秀作や、増村の「青空娘」や「最高殊勲夫人」を見て、「だから何なんだ」と問おうとは思わない。それはこれらの映画が何かを語ってはいないにもかかわらず、見るものを圧倒する何かがあるからだ。
 それに対してこの映画はなにも語らず、観客を圧倒もしない。なんといっても白黒に限る江波杏子の居ずまいや当時の若者の者の捉え方(とその描き方)は観客を魅了しはするけれど、圧倒しはしない。理解を越えはしない。
 そう思うのは増村に対して高望みをしてしまうからだろう。しかし、この映画にはそんな解釈を促させる何かがあるのかもしれない。それは映画のどの要素も平均的に合格点という感じの映画だからかもしれない。心地よいスピード感、適度に絡み合ったプロット、うまく練られた映像。そのそれぞれを取れば十分に見事な作品なのだけれど、私が増村の映画に求めるひとつの突出した個性がない。それは一人の役者でも、映像でも、音楽でも、演出でも何でもいいのだけれど、何かひとつ目をひきつけて離さないものがあるといい。
 この映画を見ながら、他の小林節雄や他の川口浩と比べてしまう。すると、「卍」や「闇を横切れ」が頭に浮かんでしまう。でも、江波杏子はこれが一番かもしれないと思った。

女体

1969年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:浅丘ルリ子、岡田英次、岸田今日子、梓英子、川津祐介

 大学の理事長のところに1人の派手な女が訪れる。その女・浜ミチは理事長の秘書で娘婿の石堂に理事長の息子に強姦されたといい、200万円の金を要求した。理事長と石堂、その妻晶江の間の話し合いで、金で解決することに決まり、石堂がその金を渡しに行くのだが…
 増村得意の男を狂わす魔性の女もの。その中でもかなり強烈な一作。浅丘ルリ子はまさにはまり役。

 いきなり紺地にオレンジの水玉のワンピースというカットで始まるこの映画は非常に鮮やかな色彩の映画で、色彩という面ではそれほど冒険してこなかった増村にとってひとつの挑戦だっただろう。しかし色彩といっても、この色彩の多彩さはただただ浅丘ルリ子の衣装に収斂する。風景や車はいつもの増村らしい地味なトーンで統一され、その中で浜ミチの纏う洋服だけが鮮やかに映る。
 この浜ミチの色彩的な突出は映画における(あるいは社会における)そのキャラクターの突出とリンクしているのかもしれない。周囲の風景に溶け込まない彼女の被服は、社会に溶け込まない彼女の性質を示し、その不整合は苛立ちを生む。全くひとつの画面として溶け合おうとしない強烈に対立しあう図と地の関係は、全く根本的にコミュニケーションが成り立たない浜ミチと周囲との関係に似ている。このディスコミュニケーションが彼女を見ているわれわれのうちに生じる苛立ちの原因だろう。
 浜ミチと周囲の人々は話し合っているようで全くコミュニケーションはできていない。それはもちろん浜ミチが聞く耳を持たないからだが、それはそもそも彼女にはコミュニケーションをしようという意思がないからで、コミュニケーションをとろうと思っている周囲の人たちとかみ合うわけはないのだ。
 しかし、われわれは会話とはコミュニケーションであり、互いに相手の言うことを聞いていると思いながら映画を見る。したがって浜ミチよりはその周りの人たちのほうに同一化しやすいだろいう。その同一化の中で見つめる浜道は非常にいらだたしく、厄介な存在だ。「魅力的である」という価値観を共有できない限り、全くもってただただいらだたしいだけの存在だ。
 しかし、誰に同一化するかは見る人によって、あるいは見るたびに変化するものだから、この映画が端的に「いらだたしい」映画だと断言することはできない。同じ魔性の女もの「でんきくらげ」を見たときは、すっかり渥美マリの側に自分を置いてしまったので苛立ちはむしろ周りの人のほうに感じた。この違いは何なのか? 映画の側の違いなのか、それとも私の中の何かの問題なのか? 

千羽鶴

1969年,日本,96分
監督:増村保造
原作:川端康成
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、平幹二郎、京マチ子、梓英子、船越英二

 とある茶室で開かれた茶会。その茶会を主催する栗本ちか子は、そのちか子を訪ねてきた青年菊治の父親の愛人だった。そしてそこには、菊治の父親のもう一人の愛人・太田夫人も娘を連れてやって来ていた。ちか子の狙いは菊治に見合いをさせようという魂胆だったが、菊治はその帰り菊治を待っていた太田夫人に出会う。
 これが増村作品最後の出演となった若尾文子の熱演がまぶたに焼きつく。川端康成の原作も、新藤兼人の脚本も小林節夫のカメラも素晴らしいのだけれど、頭に残るのは若尾文子の吐息。

 若尾文子の圧倒的な存在感。一番最初のセリフからそのキャラクターをしっかり示す息遣い。不自然なほどにまで誇張されたそのぜーぜーと音を立てる息遣いと、くねりくねりと作る「しな」。物語がどうの映像がどうのいうよりも、その若尾文子の尽きる作品。京マチ子演じるちか子は若尾文子演じる太田夫人を「魔性の女」と呼び、しかし映画は全体を通してむしろそのちか子こそが「魔性」であるのだと説得しているように見える。そして最後には菊治がちさ子に対して、「お前の方が魔性の女だ」というのだけれど、見終わって考えてみると、本当に魔性なのは太田夫人の方で、映画の舞台から去ってしまった後までもその呪縛が続き、存在は薄れない。いくら茶碗を割ってみたことで破片は残り、それは逆に存在を広げてしまうことになるのだろう。菊治は最後に吹っ切れたようなことを言うけれど、本当にその呪縛から逃れられたとは思えない。決して不愉快な呪縛ではないのかもしれないけれど、逃れることはできないのだろう。
 そんな若尾文子の存在感を支えるのはその物語と映像なのだけれど、脚本が新藤兼人で、カメラマンが小林節雄であるということを考えると、ことさらつらつら書くまでもないことなのかもしれない。小林節雄のフレーミングはいつ見ても秀逸なアンバランスさで、見事にフレームの中心と画像の重心をずらしている。この映画でも他の映画と同じく、人物を片側に寄せる場面、違和感のある切り返し、斜め方向へのものの配置という要素が多分に出てくる。
 でもやっぱり若尾文子。これで最後と思うと名残惜しい。これまでの増村との関係をすべてぶつけたような迫真の演技。これぞ女優魂というものを感じました。

黒の試作車

1962年,日本,95分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:舟橋和郎、石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:田宮二郎、高松英郎、叶順子、船越英二、菅井一郎

 タイガー自動車は開発中の新車のテストを行っていたが、そのテストカーが事故を起こし、その事故の事実が産業スパイによって新聞社に売られてしまった。それをライバルヤマト自動車の馬渡の仕業だと考えたタイガー自動車の小野田は部下の朝比奈を片腕として激しいスパイ合戦をはじめる決意をする。
 ビジネスの世界を舞台としたハードボイルドな物語。田宮二郎を主役として3年間で11作が作られたサスペンス「黒」シリーズの第1作。

 増村のサスペンス物は面白い。やはり若尾文子とものとか渥美マリの「軟体動物シリーズ」などに注目が集まりがちだが、このサスペンスというジャンルは増村は得意らしい。特にスパイものは。「陸軍中野学校」は何といってもヒットシリーズだし、この「黒」シリーズもそう。ほかには川口浩主演の「闇を横切れ」もかなり面白かった。サスペンスというと謎解きの面白さでプロットが面白さの大部分を占めると考えられがちだけれど、私は必ずしもそうではないと思う。文字で読むのとは違う映像ならではの謎解きというものが存在し、犯人を明かすも殺すも監督の演出力次第という感じがする。この作品はちょっと犯人がわかりやすかったけれど、それでも確信をもてるまではいかない隠しかたはされていた。
 増村のサスペンスが面白いのはそれだけではなく、結局サスペンスに終始しないというところ。「恋にいのちを」も一種のサスペンスだったけれど、人情とか恋愛とかそういう人間的な要素が大きな部分を占める。この作品でも結局のところスパイ合戦よりも主人公の田宮二郎のこころの動きというものが本当の物語の核であるような気がする。時代性を考えれば高度成長期を突き進む日本の企業戦士への警鐘なのかも知れない。
 またサスペンスでは増村のマッチョさが浮き立たされてそれが面白いというのもある。基本的に男の正解を描く増村のサスペンスでは登場する男達がみんな(精神的に)マッチョでそれは増村自身のキャラクターを反映しているような気がする。そのマッチョさを現代にも通じるものとして肯定することは到底できないけれど、一つのパターンとして考えるのはとても楽しい。女性をあんなに魅力的に描ける監督がどうしてこんなマッチョな面を合わせ持つことができるのか?ヨーロッパ的な騎士道精神かな? イタリア留学してたくらいだから、イタリア的なのかもしれません。
 今日のテーマは増村とサスペンスとマチスモとイタリアということでした(後付け)。

氷壁

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:井上靖
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:伊福部昭
出演:菅原謙二、山本富士子、野添ひとみ、川崎敬三、山茶花究

 サラリーマンの魚津は休暇といえば山に登る。今度の休みも山に登り、帰りに立ち寄った行きつけの料理屋で登山仲間の小坂が来たと聞き、小坂を追って喫茶店に行く。そこで魚津は小坂と小坂が思いを寄せる八代夫人との関係に巻き込まれた。魚津は小坂に夫人をあきらめさせ、思いを吹っ切るため冬の穂高へ向かった。
 井上靖原作、新藤兼人脚本というかなり骨太のドラマ。初期の増村のシリアスな作品は脚本に恵まれていると思う。

 やはり増村といえども脚本がよくなければどうにもならないのかもしれない。そんなことを思います。新藤兼人が脚本した増村の作品はこの他に「不敵な男」「」「卍」「清作の妻」「刺青」「妻二人」「華岡青洲の妻」「千羽鶴」とあります。こう見るとどれも非常に見応えのあるドラマです。
 この映画でいうと、基本的に山本富士子演じる八代夫人のなんともいえない煮え切らなさが物語の核となるわけですが、ここまで徹底的に煮え切らないというかわがままというか、そういう人を描いてしまうところがすごい。要するにみんなに好かれたいけれど体面も保ちたいという徹底的なわがままなわけで、そんな身勝手なという気がしてしまいますが、そんな人に振り回される人を描くことでドラマは深まってゆくのだからわからないもの。やはり現代とは違う感覚がそこにあるのかもしれません。それとも、むかつく女だと思ってしまうのは私だけ?
 人をいらだたせたり、怒らせたりすることができるのも映画に(あるいは脚本に)力があるということなので、やはりこの作品には力があるのでしょう。うーん、しかし山本富士子は… 俺だったら1も2もなく野添ひとみを選ぶけどな… 今回はトピックがこまごまになっていますが、もう一つ。山茶花究がいい。昨日の「恋にいのちを」でもかなりよかったけれど、今回はさらにいい。増村作品にはよく出てきますが、この作品はかなり主役級で使われています。そして物語の一つの鍵にもなっている。まさに味のある脇役。川島雄三作品にもかなり出ています。

恋にいのちを

1961年,日本,93分
監督:増村保造
原作:川内康範
脚本:川内康範、下村菊雄
撮影:小原譲治
音楽:西山登
出演:藤巻潤、江波杏子、富士真奈美、山茶花究、高松英郎

 胸を病んでいた美琴は医者からもう全開といわれる。その医者のところに訪ねてきた雑誌記者の加納は行方不明となった父親を捜し、父の戦友だったその医者を訪ねてきたのだった。実はその加納は美琴の実家の料亭の得意で美琴を家まで送っていく。この二人を中心として恋愛と陰謀とが絡んだドラマが展開されてゆく。
 若尾文子や川口浩といったスターを起用せず、地味な配役で臨んだ正統派ドラマ。ドラマの練り方はさすがだがやはり全体に地味かも。

 増村にしては普通かな。ドラマとしてはドロドロ系で、いい感じですが、やはり藤巻潤と江波杏子ではパンチが弱い。野添ひとみや若尾文子とはちょっと違う。江波杏子は好きですが、脇役にいてこそ映える女優という気がします。藤巻潤もしかり。ドンと田宮二郎あたりが主役に座っていたらずいぶん違う印象の映画になったんだろうなぁ、などと思ってしまいます。
 そしてカメラマンはベテラン小原譲治。増村とは監督第1作の「くちづけ」で組んでいます。豆知識としてはこのカメラマンは川口松太郎(「くちづけ」の原作者、川口浩の父)の監督作品のカメラマンを勤めていたりしています。そんな小原譲治の画はそつがないという感想です。藤巻潤がアパートの階段を上っていく場面でのパンの仕方などがとてもスムーズで、人間の視線のようにカメラを使います。1箇所藤巻潤が社長と人悶着起こす場面でかなり細かな切り返しがあり、その部分はかなり新しい感じはありましたが、他の部分ではそれほどすごいと感じるところはありませんでした。
 ということで、全体的に地味な作品ではありますが、こういうのもありかなとは思います。こういうシンプルなドラマを見るたびに、当時の映画が1番の娯楽だった時代を思います(というか想像します)。いまならテレビで見て済ませてしまうような単純なドラマを映画館まで見に行く時代。そんな時代の有象無象のドラマの中にたくさんの名作が含まれていたということです。増村もまたそんなドラマを大量に作らなければならない職人監督の一人だったわけで、どの作品も豪華スターを使って全力投球というわけには行かなかったでしょう。この作品が撮られた60年代前半増村は毎年およそ4本の作品を監督しています。いまからでは考えられないペース。そんな中で撮られた作品なんだということが頭をよぎります。

足にさわった女

1960年,日本,85分
監督:増村保造
原作:沢田撫松
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:京マチ子、ハナ肇、船越英二、大辻伺郎、ジェリー藤尾、田宮二郎、杉村春子

 東海道線の特急の中、小説を一心に読む少年と隣の席に座った学生。少年が食堂車にいくとそこにはその小説の作者である五無と雑誌社の編集者、それに大阪の刑事がいた。彼らとその電車に乗り合わせた美人スリさやとが繰り広げるドタバタ喜劇。
 沢田撫松の原作の3度目の映画化。2度目の映画化の際に監督をした市川崑が企画と脚本に名を連ねている。増村はクレイジーキャッツを起用することでこの作品をコメディ映画に仕上げた。

 軽快です。映画全体に非常に心地よいリズムがあって、そのリズムを崩さずに映画が進んでいく感じ。ある意味では先の展開が読めるということでもありますが、期待したとおりのことが期待したとおり起こるというのはなかなか気持ちのいいものです。そのリズムが唯一崩れるのは、厚木の飛行機を写した長いインサートですが、これはこれで物語のちょうど中間あたりにひとつの間を取るという意味でリズムを崩すというよりはひとつの間を与える。このあと少しテンポアップするので、あとから見ればいい間だったということです。
 後は、時代性ですかね。増村の作品で、主に若者を描いた作品ではことさらに「時代」というものが色濃く出ているものがありますが、それは当時のリアルタイムを今になってみているというもので、今になってみると少し押し付けがましさを感じます。それに比べるとこの作品が感じさせる時代性というものはもっとさりげないもので、今になってみるとよりリアルに感じられる。
 街角に貼られた映画のポスターや街そのもの、特急というものの新しさ(増村には「黒い超特急」というのもありました。あれも新幹線の時代性というものを感じさせてた)などなど。これはこの映画には昔を振り返るという面があるからこそ出てきた特徴でしょう。前の時代を振り返ることによって振り返った時点の時代性が浮き彫りになってくる。ただ現在を映しただけでは出てこない深みが出てきます。
 ところで、この映画のカメラは村井博さんですが、増村作品でカメラを多く握っている人の一人です。私はこの村井博という人より小林節夫が撮影を担当した作品のほうが好みです(中川一夫は別格として)。少々分析すると、村井博の映像はすっきりとしていて増村自身の意図がストレートに出てきている気がします。この作品のような軽快な作品ではこういうさりげない映像というのがとても効果的ではあります。これに対してこ小林節夫の映像は構図が非常に凝っていて、画面にインパクトがあります。だから画面自体が語ってしまい、その奥にあるドラマが薄められてしまうという感はありますが、増村の濃厚なドラマにはそれぐらい強い画面のほうがいい。濃厚なドラマと強い画面がぶつかり合う雰囲気がたまらなくいい。
 今度は小林節夫を見に行こう。

からっ風野郎

1960年,日本,96分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、安藤日出男
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:三島由紀夫、若尾文子、船越英二、志村喬、川崎敬三、水谷良重

 東京刑務所、今日出所予定の111番の男に面会が告げられた。しかしその111番はバレーボールの最中で仲間に代理を頼む。代理の男が面会室に行くと、そこにいた妖しげな男は相手の名前を確認して銃を発射した。実は111番の男は朝比奈組の二代目で別の組に命を狙われていたのだった。
 作家の三島由紀夫を主演に起用したかなり型破りな作品。内容もただのやくざものではなく、増村らしい人情劇という感じ。

 なんといっても三島由紀夫の存在感はすごい。いきなり上半身裸でマッチョぶりを見せつけ、その後も棒読みのセリフとお世辞にもうまいとはいえない演技ながら、それを個性としてしまうほどの存在感を示す。増村さえも食ってしまったという印象すらあるが、私はこれは増村の戦略だと思う。増村映画レギュラーの名優達に志村喬を加えた豪華脇役陣を使って三島の個性を引き出す、そんな戦略。
 それが感じられるのは、この映画では三島が前景に出る場面が多いということなどからである。たとえば若尾文子と二人でいる場面で、若尾文子が話している場合でも、前景に三島を置いて、奥の若尾文子にピントを合わせるシーンなどがある。他のシーンでもこのような場面がいくつか見られた。主役ということもあるかもしれないが、増村のほかの作品と比べても主役が画面に閉める延べ面積が大きかったように思える(延べ面積で計算することもないんですが…)。だから逆に三島がいない画面はどことなく寂しく感じられるのだろう。
 だからこれは単純に三島由紀夫の個性の問題ではなくて、増村保造の撮り方のけれど、役者でもなんでもない人を堂々と主役に据えてとるんだからそれくらいの事は仕方ない。そして、役者でもなんでもない人を使い、その個性を前面に押し出したからことで切るラストシーン。このいい画を取るために常識も何も捨ててしまったラストシーンを見れば、増村がいかに三島由紀夫の個性を買っていたかが分かる。
 そういえば、増村も三島も(精神的に)マッチョな感じで近しいところがあるのかもしれない。増村は「女なんて力でねじ伏せちまえば…」的な描写がこの映画にも出てきたし、他の映画でもたまに見られるようにかなりマッチョな性格なようです。見た目はそうでもなさそうなのに。三島由紀夫は言わずもがな。まあ、時代性もあるとは思いますが、いま見ると「そんな…」と思ったりもします。