チョコレートドーナツ

舞台は1979年のアメリカ、自分がゲイであることを押し殺して来たと思われるポールが、ゲイバーでダンサーとして踊るルディに出会い、惹かれてしまう。ポールはゲイの世界に飛び込むことを躊躇し、ルディに対して煮え切らない態度を取る。

一方、ルディの方は、アパートの隣の部屋でドラック漬けの母親と暮らすダウン症の少年マルコに出会う。母親が逮捕され、マルコは施設に送られるが、施設を逃げ出してきたマルコをルディは自分の家に連れ帰り、検事局に勤めるポールに相談する。

そんな経緯からカップルとなったポールとルディはマルコと幸せに暮らすが、マルコを取り上げられることとなり、2人は弁護してくれる黒人弁護士のロニー・ワトソンと出会う。
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チャックとラリー おかしな偽装結婚!?

ゲイもののコメディは当たりが多い。この作品も普通に面白い。

I Now Pronounce You Chuck & Larry
2007年,アメリカ,115分
監督:デニス・デューガン
脚本:バリー・ファナロ、アレクサンダー・ペイン、ジム・テイラー
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
出演:アダム・サンドラー、ケヴィン・ジェームズ、ジェシカ・ビール、スティーヴ・ブシェミ、ダン・エイクロイド

 NYの消防署に勤めるチャックとラリーは親友同士、妻を亡くして子供ふたりを抱えるラリーは年金の受取人を子供に変更するのを忘れていて、手続きに時間がかかるといわれて途方にくれる。そんな折、火事現場でラリーがチャックをすくい、何でもいうことを聞くというチャックに対し、ラリーは年金受け取りのため偽装同性結婚をしてくれと言い出す…
 アダム・サンドラー主演のコメディ。スティーヴ・ブシェミにダン・エイクロイドという豪華キャストでなかなか。

 親友を助けるためにパートナーシップ法を利用して偽装同性婚をしたラリーだったが、偽装ではないかと疑う調査員が派遣されたことで、本当に芸らしく振舞わなければならなくなり、さらに相談した美人弁護士に芸の権利のためのパーティーに参加してくれといわれ、そこで新聞記事になってしまうという展開。

 同時にラリーはその美人弁護士アレックスに惚れてしまい、アレックスのほうはラリーがゲイだということで心を許す。チャックのほうは死から3年経っても妻のことが忘れられず、息子がミュージカル好きなのが悩み。

 なんかどっかで聞いたような話ではあるが、コメディとしてはなかなかよく練られたプロット。

 チャックが入院したときに子供たちが母親が病院で死んだことを思い出して不安に襲われるエピソードを挿入して、チャックの焦燥感をあおるというもって行き方などはなかなか気が利いている。さらにアメリカ人のホモホビアの感情をうまく利用し、消防士というマッチョでもちろんゲイに偏見を持っているチャックに「ゲイも同じ人間なんだ」といわせるという展開はゲイものの王道とも言える展開だ。

 コメディとドラマをうまく融合させたこのプロットのよさも脚本家の列を見れば納得。『アバウト・シュミット』『サイドウェイ』のアレクサンダー・ペインとジム・テイラーのコンビが名を連ねている。

 笑いの部分ではカナダの結婚式場のアジア系の神父?のところが面白かった。まさにサタデー・ナイト・ライブ的な笑いでアダム・サンドラーの十八番というところか。ゲイがらみの下ネタのほうはあまり笑えなかったが、チャックとラリーがゲイっぽく見える買い物をしているシーンはなかなか面白かった。

 アダム・サンドラーは日本での受けはあまりよくなく、この作品もあっさりとDVDスルーになってしまった。まあ確かに劇場で見るほどではないという気はするが、私は嫌いじゃない。最近ではジャド・アパトー・ファミリーと組んだ『エージェント・ゾーハン』もDVDスルー。監督はこの作品と同じデニス・デューガン、これもなかなか面白そうじゃないか。一方、同年の作品でもディズニー製作の『ベッドタイム・ストーリー』は劇場公開(2009年3月)。私なんかはこの作品はどう見ても面白そうには見えないのだが… 面白そうな映画と日本で受け入れられる映画は違うんだね。

ロバート・イーズ

Southern Comfort
2000年,アメリカ,90分
監督:ケイト・デイヴィス
撮影:ケイト・デイヴィス
音楽:ジョエル・ハリソン
出演:ロバート・イーズ、ローラ・コーラ

 典型的な南部の郊外のトレーラー・ハウスで暮らすロバート・イーズ。どこから見ても普通のおじさんという彼だが、実は女性として生まれ二人の子供まで生んだ後、性転換手術を受け、男性となった。そして今は、子宮と卵巣が末期のがんに侵され、余命いくばくもない状態だった。しかし、彼は秋に開かれるトランスセクシャルの大会(サザン・コンフォート)にもう一度参加することを夢見て、パートナーのローラと懸命に生きるのだった。
 アメリカでも好機の目にさらされるTS(トランスセクシャル)やTG(トランスジェンダー)の問題と真っ向から向かい合ったドキュメンタリー。非常にわかりやすく問題の所在を描き出している。

 TSやTGという人は実際はきっとたくさんいて、ただそれが余りメディアに登場しない。日本では金八先生で「性同一性障害」が取り上げられて話題になったけれど、本当はこれを病気として扱うことにも問題がある。しかし、この映画でも言われているように、性転換手術には膨大な費用がかかるので、保険の問題から病気といわざるを得ないということは言える。性別の自己決定権というかなり難しい問題を理解するひとつの方法としてこの映画は多少の役には立つ。
 実際の問題はそのような理知的なレベルではなくて、いわゆる偏見のレベルにある。「気持ち悪い」とか「親にもらった体なのに」という周りの偏見や勝手な思い込み、これが彼らのみに重くのしかかる。マックスの妹のように身近にそのような人がいればその痛みがわかるのだろうけれど、いないとなかなかわからない。だからこの映画のように、メディアを通じてその痛みを感じさせてくれるようなものを見る。それでも本当の痛みはわからないけれど、何もわからず彼らを痛めつけてしまうよりはいいだろう。
 この映画は、ひとつの映画としては死期の迫った一人の男を追ったドキュメンタリーにすぎず、彼がたまたまトランスジェンダーであったというだけに見える。そのことが強調されてはいるが、それによって何か事件が起こったりするわけではない。穏やかに、普通の人と同じく、一つの生きがいを持って(TSの大会に参加すること)、生きる男の物語。
 だから、特にスペクタクルで面白いというものではないけれど、逆にこのように普通であることが重要なのだ。「普通の人と同じく」と書いたけれど、彼らだって普通の人と変わらないということをそれを意識することなく感じ取れること。つまり、「彼らも普通の人と変わらないんだ」と思うことではなく、「何だ、普通の話じゃん」と思えてこそ、彼らの気持ちに近づいているのだと思う。
 そう考えると、この映画は見ている人の意識を喚起させるのには役立つけれど、彼らは普通の人とは違うととらえているところがあるという点では被写体との間すこし距離があるのではないかと思う。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

ハッシュ!

2001年,日本,135分
監督:橋口亮輔
脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾
音楽:ボビー・マクファーリン
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子、富士真奈美、光石研

 直也はペットショップで働きながら気ままなゲイライフ送っていた。ゲイであることを隠しながら研究所で船の研究をする勝裕は、思いを寄せていた同僚が結婚してしまったことにショックを受ける。歯科技工士の朝子は自分の殻にこもり、周囲との関係をたって孤独な生活を送っていた。付き合い始めた直也と勝裕がふとしたことで朝子に出会ったことである物語が始まる…
 橋口亮輔が「渚のシンドバット」以来久々に監督した作品。自身もゲイである監督は今回もゲイの世界を描いた。今回はコメディ的な要素を強め、明るく楽しく見ることができる。

 これは完全にコメディなんですよ。ゲイ・ムーヴィーというとなんだか思想的なものがこめてあるという印象ですが、面白いゲイ・ムーヴィーというのはたいていコメディ。だからとにかく笑えばいい。かなり人間関係のドラマを濃厚に描いてるけれど、それも結局は笑いにもっていく。
 もちろん、ゲイであることを隠す勝裕(すべてはここからはじまる)という問題もあるし、ゲイに対する誤解(たとえば富士真奈美)という問題も提起されてはいるけれど、それはあくまでそのことに今まで気付かなかった人達が気付けばいいという程度のもの。そこにことさら何か主張が込められているわけではないと思います。
 どこが面白かったかといえば、「うずまさ」かな。一番は。ゲイとは関係ないけれど。でもこういうゲイとは関係ないネタも含まれているからこそこれはあくまでコメディだと言い切れるという面もあります。
 私がここまでコメディであることを力説するのは、ゲイ映画が(特にメディアによって)何か特別のもののように扱われ、そこで投げかけられている問題意識のようなものを取り上げてしまう。もちろんそれは意義のあることではあるけれど、逆にゲイ映画というものを特別なものとしてしまい、客足を遠のかせてしまう。そんな気がしてしまいます。コメディ映画としてみてきた人が「ああ、これってゲイの映画なんだね」と思うくらいがいいと思う。
 私はゲイの人たちのクリエイティビティというものを非常に買っているので、そのようにして彼らの活躍の場が広がることはとても喜ばしいことだと思うのです。この映画はゲイカルチャーはゲイだけのものであるというような考え方を打ち崩すきっかけになりそうな勢いを持っています。
 あるいは、ゲイ映画ではない。ゲイというカテゴライズを越えたすべての人間が持つ「孤独」という問題、それを描いた映画だということもできる。

 さて、「ゲイ映画」というジャンルわけをいったん無視して、この映画を見つめなおして見ます。この映画でもっともすばらしいのはその自然さ、それはつまりリアルさ。細部まで行き届いた現実感。自然な台詞回しは最近流行の役者のアドリブを取り入れようという方法かと思いきや、ほぼすべて台本通りリハーサルにリハーサルを重ねて作り上げたものだそうです。そう考えると、この映画の緊迫感や生々しさは非常に驚異的なものかもしれません。役者の身にせりふが染み込んでいる感じがする。小物なども注意が行き届いている。直也と勝裕が一緒に住む部屋のファーストカットで直也と直也の部屋にあった緑のチェックのクッションが映る。これが(今までの)直也の部屋でないことは明らかなので、くどくど説明しなくてもこの1カットだけで引っ越して二人ですんでいるということがわかる。このあたりは秀逸。
 さて、今回気づいたことは勝裕が直也の着ていた服を着ているということ。太陽みたいな柄のTシャツや、シャツなんかを共有しているのかお下がりで着ているのかはわかりませんが、とにかく直也が勝裕のダサさを克服しようと着せていると思われます。そのあたりの細かい設定も現実感を増しているのでしょう。
 後は、シーンからシーンのジャンプ。シーンの終わりが唐突で、いきなり次のシーンに飛ぶ。一瞬の黒画面やフェードアウトが入ることはあっても、かなり唐突な感があります。これは上映時間の都合上カットしたということもあるようですが、基本的には橋口監督のスタイルということですね。映画がテンポアップするとともに勝裕が風呂場で口を真っ青にするところのようなシーンの面白いつながり方をも生み出しています。

 これは余談ですが、誰もが心に引っかかる「怒るといつもアイス食べるじゃん」のアイスクリームはハーゲンダッツのバニラアイスクリームですが、橋口監督曰く、それは「世界で一番おいしい食べ物」だそうです。それはステキ。

夜になるまえに

Before Night Falls
2000年,アメリカ,133分
監督:ジュリアン・シュナーベル
原作:レイナルド・アレナス
脚本:カニンガム・オキーフ、ラサロ・ゴメス・カリレス、ジュリアン・シュナーベル
撮影:ハヴィエル・ペレス・グロベット、ギレルモ・ロサス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ハヴィエル・バルデム、オリエヴィエ・マルティネス、アンドレア・ディ・ステファノ、ジョニー・デップ、ジョーン・ペン

 キューバの作家レイナルド・アレナスはキューバの田舎の小さな村に生まれた。自分の同性愛的性向と作家の才能に早くから気づいた彼の人生は少年の頃に起きたキューバ革命によって大きく変化した。
 同性愛が迫害されるキューバにあって、生きつづけ、書きつづけた作家レイナルド・アレナスの自伝を「バスキア」のジュリアン・シュナーベルが映画化。

 原作との比較は常に頭にあるのですが、あくまで映画について語るためにそれはなるべく置いておいて(多分後に進むに連れ比較せずに入られなくなると思いますが…)、映画の話をしましょう。
 映画としてこのプロットは非常に平板で、単調な気もします。クライマックスがなくて、1人の男が生まれて死んでいくまでを淡々と語った感じ。このアンチクライマックスの語りが吉と出るか凶と出るかということでしょう。劇場であたりを見回したところ寝ている人もポツポツいたりしたので、単調ではあったのでしょう。それから物語の背景となるキューバに関することがらが余りに語られなさすぎるので、多少の知識がないと物語が理解できないという恐れもあります。
 ということで、ここは私がちょっと詳しい程度のキューバの知識を持って原作を知らずに映画を見たと仮定して映画を振り返って見ましょう。長くなりそうだ。
 モノローグの映画なのにモノローグを使わない。映画全体が自伝であり、モノローグとして機能しているのに、主人公自身の言葉でモノローグがなされるのは3度だけ。どれも長めのモノローグで、歌のように響く。その言葉自体の意味はわからないけれど、その言葉は軽やかに韻を踏み、詩であるかのように聞こえるし、実際一つの散文詩であるのだろう。その効果的なモノローグに挟まれる形である2つの断章。一つ目のほうが極端に長く、その激しい物語展開とは裏腹に非常に淡々と語られる。イメージの氾濫。言葉ではなく映像で語ろうとする映画という言説。少年が兵士であふれたトラックに乗ることの意味や、教壇に立つロシア語をしゃべる赤い本を持った男の意味や、焼き払われるさとうきび畑の意味がイメージとして語られる。
 この文章もだんだんイメージに引っ張られて断片化してきました。
 結局原作と比べることになりますが、原作が伝える恐怖感が欠如している。どうしようもない焦燥感と恐怖感、それが伝わっていないのが非常に残念だとおもいました。原作は100倍面白い。書店で見かけたらぜひ買って下さい。
 全編一気に映画にしてしまうのではなく、いくつかの断章を拾い集めて再構築したほうが面白い映画になったような気もします。

苺とチョコレート

Fresa y Chocolate
1993年,キューバ=メキシコ=スペイン,110分
監督:トマス・グティエレス・アレア、ホアン・カルロス・タビオ
原作:セネル・パス
脚本:セネル・パス
撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ホルヘ・ペルゴリア、ウラディミール・クルス、ミルタ・イバラ、フランシスコ・ガットルノ、ヨエル・アンヘリノ

 同性愛者が反革命分子として迫害されていたキューバ。結婚するつもりだった彼女が別の男と結婚したことに心を痛めていたダビドは、ある日カフェテリアでチョコレート・アイスクリームを食べていた。すると、彼の前にゲイで芸術家のディエゴがストロベリー・アイスクリームを食べながら現れた。
 当時のキューバの状況を考え、この映画がキューバ政府の検閲を通り抜けてきたということを考えると、いろいろな見え方がしてくると思う。

 何年か前にはじめてみたときは、素直にキューバのゲイというものの現状を表しているようで面白くもあり、映画としても独特の質感があって面白いと思いました。冷蔵庫のロッカもとても印象的。人工的なライティングではない自然光のもつ色合いを初めとした「自然さ」がその質感を作り出しているんだと今回見て思いました。そして面白かったという最初の感想は裏切られることなく、とてもいい作品でした。ちょっとソープドラマくさいところもありましたが…
 しかし、こういう書き方をすると言うことは含みがあるわけで、キューバのゲイの現状という意味ではどうなのかという疑問も浮かんでくるわけです。プレビューにも書いたとおり、当時のキューバは映画に対する検閲を行っており、そもそも政府お墨付きの監督の映画しかキューバから堂々と出ることはできなかったわけです。この映画がキューバ映画として外国で配給されたということはつまり、この映画の監督が政府に認められており、またこの映画は検閲をとおったということです。
 ということを考えると、つまりこの映画に描かれるキューバは外国人がみるキューバの見方として政府が公認したものであるということです。ちょっと前にお届けしたドキュメンタリー「猥褻行為」や今度公開される「夜になる前に」もキューバにおけるゲイへの迫害を描いているわけで(「夜になる前に」はまだ映画は見ていないので、原作の話になりますが)、それと比較することが可能です。この映画でもゲイが迫害されていることは描かれています。そしてその迫害を非難するような態度を見せています。しかし、この映画で問題となるのはその迫害に対する非難がゲイ全体への迫害への非難ではなく、ディエゴ個人への迫害の非難なのです。そして、ディエゴは自らも主張するように決定的に反革命的であるわけではない。むしろ国を愛し、国にとどまりたいと考えている。この点は「夜になる前に」の作者であるレイナルド・アレナスも同様です。彼はキューバが嫌いなのではなく、キューバにいることが不可能であるから亡命する。
 この「国や革命を批判するわけではないが、自分にとってはいづらい環境である」という考え方がそこにはあるわけです。このように集団ではなく個人を扱うことによって問題は曖昧になります。だからこの映画は検閲を通ったのでしょう。
 だからこの映画が本当に何を主張しようとしているのかを探るのは相当難しいことだと思います。私は個人的にはこの映画自体は体制を批判するつもりは毛頭なく、むしろ外国にキューバの寛容さをアピールするものだと思いますが。

イン&アウト

In & Out
1997年,アメリカ,90分
監督:フランク・オズ
脚本:ポール・ラドニック
撮影:ロブ・ハーン
音楽:マーク・シェイマン
出演:ケヴィン・クライン、ジョーン・キューザック、マット・ディロン、トム・セレック、デビー・レイノルズ

 教え子にアカデミー賞授賞式で「ゲイだ」といわれてしまった高校教師ブラケット。結婚まで決まっている彼は事態の収拾に乗り出すが…
 いわゆるゲイ・コメディだが、純粋にコメディとしてみても面白い。アカデミー授賞式のノミネート作品とか、「男らしさ」講座のテープとか。プロットもよくよく見ると意外と凝っていて最後まで楽しめる。

 脚本家のポール・ラドニック自身がカミングアウトしたゲイであるので、ゲイを馬鹿にして笑い飛ばすという姿勢はとらないが、ゲイであることを隠そうとする人を利用することでゲイを毛嫌いする人々(ホモフォビア)を笑い飛ばす。アメリカはゲイに対する偏見が少ないというけれど、それはあくまで都市部の話で、田舎のほうでは同性愛者に対する意識なんてこの低だのものだろう。記者のラドニックは都市の洗練されたゲイとして田舎のホモフォビアたちのバカらしさを明らかにする。 という物語なわけですが、結局自分がゲイであることを認めないようとするブラケットの振る舞いがいかにゲイ的であるかということが笑いの焦点なわけで、そこを笑えないとつらいかもしれません。
 そういえば、この映画はどこかの映画賞で「ベストキス賞」という賞をとったそうです。なるほどね。

ボーイズ・ドント・クライ

Boy’s Don’t Cry
1999年,アメリカ,119分
監督:キンバリー・ピアース
脚本:キンバリー・ピアース、アンディ・ビーネン
撮影:ジム・デノールト
音楽:ネイサン・ラーソン
出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード

 ネブラスカ州リンカーン、1993年。性同一性障害を持つブランドンはゲイの従兄ロニーのところに居候していたが、「レズ、変態」とののしる男達に家を襲われたことでロニーに追い出された。沈んだ気分でバーで飲んでいたブランドンは隣に座ったキャンディスに声をかけられ、友だちのジョンと共に出かけることにした。
 実際にアメリカであった事件を元に作られた衝撃的な映画。同性愛者に対する偏見、性同一性障害に対する無理解がいまだ蔓延していることを強烈に主張する。

 性同一性障害というのは、つまり本来の性(セックス)とは異なる肉体的な性をもってしまった障害(つまり病気)とされているが、その本来の性は脳が認識している性であり、脳もまた肉体であるのだからその「肉体的な」という表現は誤っていると思う。むしろそれは外面的な性に過ぎないということ。だからブランドンは表面的な部分以外は完全に男性であって、それが彼が「自分は同性愛者ではない」と主張する理由になっている。
 そんなことを考えると、この映画の取り上げる事件の原因となったのは単なる同性愛憎悪ではなく、むしろ同性愛恐怖(ホモフォビア)であると思う。ジョンは同性愛者が憎いのではなく、同性愛者が怖い。自分のマチスモ(男らしさ)が損なわれてしまうことに対する恐怖。自分の彼女が女に寝取られてしまうことに対する恐怖。それを振り払うためにブランドンに対してああいった行動に出てしまう。その本当の原因は同性愛に対する偏見ではなくて、根深い男性主義にあるのだろうと私は思いました。「あいつはいい奴だが、腰抜けだ」とジョンは言いました。そういう意味では、ブランドンもまた男性主義に染まっていて、男性であること=強くなくてはならない。という強迫観念がある。そのことで彼は自分をよりいっそう生きにくくしてしまっている。その辺りが本当の問題であると思います。レナはそれを何らかの形で和らげることができそうな存在だったということなのですが。
 この映画はどうしても映画の話より、その中身へと話がいってしまいますが、なるべく映画のほうに話をもっていきましょう。この映画はかなり人物のいない風景(それも長時間撮影したものをはや送りしたもの)が挿入されますが、この風景による間がかなり効果的。それは考える時間を生じさせるという意味で非常にいい間を作り出しています。しかも、それが単なる固定カメラではなくてパン移動したりもする。これは見たことがないやり方。やはりカメラをすごくゆっくり動かしていくのか、それとも他に方法があるのか分かりませんが、相当大変なことは確かでしょう。そんなこともあってこの風景のところはかなりいい。
 深く、深く、考えましょう。

猥褻行為~キューバ同性愛者強制収容所~

Mauvaise conduite
1984年,フランス,112分
監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス・レアル
出演:ロレンソ・モンレアル、ホルヘ・ラゴ、レイナルド・アレナス、フィデル・カストロ

 1960年代、キューバにあったUMAPという強制収容所には密告により様々な人々が収容された。同性愛者をその一角を占めていたが、当時世界的な熱狂で迎えられたキューバ革命賛美の潮流の中ではそのような事実はなかなか認められにくかった。しかし1980年代までにキューバからは100万人規模の人々が亡命し、徐々に理想化された国の内幕が判明してきた。
 亡命を余儀なくされた有名人のインタビューを中心としたドキュメンタリーによってフィデル・カストロとキューバ政府の誤謬を暴く。トリュフォー作品や「クレイマー・クレイマー」などのカメラマンとして知られるアルメンドロスの初監督作品。

 言ってしまえば映画としてはそれほど面白くはない。ドキュメンタリーといってわれわれがイメージする経験者の証言と限られた事実を示す映像とで構成される単調なドラマ。しかし、そのドラマは強烈だ。日本では余り知られていないにしろヨーロッパなどでは比較的知られているキューバの作家や批評家達が登場し、強制収容所の実態を語る。全く信じられないようなことが公然と行われていたという事実に直面するということは常に衝撃的である。
 この作品にも登場した作家レイナルド・アレナスは収容所をはじめとした強烈な体験を「夜になる前に」という作品につづっている。この作品にはこの映画も出てくるのだが、その信じられない体験を目にしたときの衝撃が生々しくよみがえってきた。(この「夜になる前に」は昨年アメリカで映画化され、日本でも今年の秋頃に公開される予定。)
 ドキュメンタリーという枠を越えようとする映画的にすぐれたドキュメンタリーも面白いけれど、こういう古典的なドキュメンタリーもその内容さえすぐれていれば非常に面白いものになる。この作品は非常に陰惨な内容を語っているはずなのに、インタビューを受ける人たちは比較的明るい表情で陰惨な雰囲気はまるでない。そのあたりの奥に秘められたひそやかな憎悪を見るよりも彼らがそうやって振舞うことによって生じる雰囲気を素直に味わいたい。