11’09″01/セプテンバー11

11’09″01 – September 11
2002年,フランス,134分
監督:ケン・ローチ、クロード・ルルーシュ、ダニス・タノヴィッチ、ショーン・ペン、今村昌平、アモス・ギタイ、サミラ・マフマルバフ、ユーセフ・シャヒーン、イドリッサ・ウエドラオゴ、ミーラー・ナーイル、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ユーセフ・シャヒーン、サブリナ・ダワン、アモス・ギタイ、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ポール・ラヴァーティ、クロード・ルルーシュ、サミラ・マフマルバフ、イドリッサ・ウエドラオゴ、ショーン・ペン、マリー=ジョゼ・サンセルメ、ダニス・タノヴィッチ、天眼大介、ピエール・ウィッテルホーヘン、ウラジミール・ヴェガ
撮影:リュック・ドリオン、エブラヒム・ガフォリ、ピエール・ウィリアム・グレン、ヨハヴ・コシュ、ムスタファ・ムスタフィク、ホルヘ・ムレール・シルバ、モフセン・ナスール、岡正和、デクラン・クイン、ナイジェル・ウィローフビー
音楽:マイケル・ブルック、モハマド・レザ・ダルヴィシ、マニュ・ディバンゴ、オズワルド・ゴリジョフ、岩城太郎、サリフ・ケイタ、ヘイトール・ペレイラ、グスタフォ・サンタオラーラ
出演:エマニュエル・ラボリ、タチアナ・ソジッチ、ウラディミール・ヴェガ、田口トモロ、オケレン・モー、タンヴィ・アズミ

 2001年9月11日、NYのワールド・トレード・センターなどアメリカ全土で起こった同時多発テロ、このテロに対する反応として映画界が作ったのは、世界中の11人の監督に、11分9秒1フレームの短編を撮らせ、それを一本の映画とすることだった。
 かくして、アメリカ、イギリス、フランス、日本、イラン、イスラエル、インド、ボスニア、ブルキナファソなどの監督が自らの思いを映画にした。同時多発テロを直接描いたものから、その後について描いたもの、直接的には関係ない戦争の話を描いたものなど、内容は多岐にわたる。
 日本からは今村昌平監督が参加。

   面白いと思ったのは、2本目のクロード・ルルーシュのと、真ん中へんのブルキナファソのやつですかね。特に、ルルーシュのは非常にうまい、という気がします。それは、同時多発テロという世界的な大事件があったにもかかわらず、彼女は彼との分かれの手紙を書くことばかりに気をとられていた。もちろんそのようなことが起こっていることに気づいていれば、彼のことを心配し、手紙を書くのをやめていたのだろうけれど、そうではなくて手紙を書き続けた。それは彼女が聴覚障害者であったというのも理由の一つではあるけれど、そういうことはどこでも誰にでも起こっていた。日本でも翌朝起きるまで知らなかった人もかなりいただろうし、ワールド・トレード・センターの中にいた人もまた、いったい何が起こっているのかはわからなかっただろう。
 それはイランの子供たちも同じで、メディアから隔絶された生活をしている彼らにはそんな事件が起こったことは伝えられないし、伝わったとしても、高層ビルがどんなものであるかわからないのだから、どれほどまでに悲劇なのかを伝えることはできない。その意味でサミラ・マフアルバフの作品もわれわれに一つの示唆を与えてくれる。

 などと、言葉を並べていますが、9.11についてはこれまで散々言葉で語られてきて、それに反して映像で語ろうとする試みがこの映画なのである。だから私はこの映画に関してはあまり言葉で語らず、いろいろに解釈されうる断片の集合をそのまま無言で受け取りたい。いろいろな人がこの事件をいろいろな受け取り方をした。そのほとんどは言葉にならないような感情で、私自身も心の中で言葉にならない何かが起きた。この映画はそのような言葉にならない体験を思い起こさせ、反芻させ、忘却の淵から引き上げる。そのようなものだから、私はこれ以上ことばによってこの映画の力をそぐことはしたくない。

カンダハール

Safar e Ghandehar
2001年,イラン,85分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルビシ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドユー・ティモリー

 カナダに亡命したアフガン人ジャーナリストのナファス。20世紀最後の日食の日に自殺するという手紙を妹から受け取った彼女はカンダハールにいる彼女を救うため、戦火のやまぬアフガニスタンに入りカンダハールへ向かう。まずはイラン国境のキャンプへ行き、アフガニスタンに帰る難民の家族に紛れさせてもらったが、簡単にカンダハールにたどり着くことはできなかった。
 キアロスタミと並ぶイランの巨匠マフマルバフが実話を元にアフガニスタンを描いた話題作。一種のロード・ムーヴィーの形をとり、アフガニスタンの現状がわかる形でドラマが展開してゆく。

  まずは「9・11」に触れなくてはならない。隣国に住むマフマルバフはアフガニスタンに気づいていた。そしてアフガニスタンを世界に思い出させようとした。しかしマフマルバフでさえ遅すぎたのかもしれない。マフマルバフが「カンダハール」を完成させたころ、タリバーンはバーミヤンの石仏を破壊した。マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章を発表し、世界にアフガニスタンを思い出させようとした。
 しかし世界は9月11日までアフガニスタンのことを思い出さなかった。私もまたその一人だ。「カンダハール」がもう少し早くできていたなら、何かが変わっていたかもしれない。もう少し早く世界がアフガニスタンを思い出していたならば、何かが変わっていたかもしれない。
 ナファスは妹を救うことができなかったのかもしれない。運命を変えることができなかったのかもしれない。この映画ができたのはナファスを演じるニルファー・パズィラが自殺を図ろうとしている友人を救うためマフマルバフに助けを求めたことに始まった。彼女の友人は自殺を思いとどまったのだろうか?この映画は何かを変えることができたのだろうか?
 しかし、少なくとも、この映画は今後何かを変えることができると思う。ビン・ラディンとタリバーンをEvil(悪)と決め付けてしまったアメリカと世界がこの映画を見たらどう思うか。報道統制をしてまでビン・ラディンを絶対的な「悪」に祭り上げたブッシュはこの映画を見て自らを恥じ入るだろうか? ホワイトハウスからこの映画を見たいという要請があったらしいが、ブッシュは彼が虐殺したタリバーンなるものはこの映画の中で小銃を握りながら列になってクルアーン(コーラン)を読む少年たちに他ならないことに気づくだろうか?個々の人間から遊離したタリバーンという概念を「悪」と決め付けることでそれを構成する人々もまた「悪」であると決め付けるその暴力性。あちこちで言われているように「爆弾でブルカを脱がすことはできない」のだ。
 われわれはアメリカの報復の醜さと非道さをもっと声高に叫ばなければならない。暴力を更なる暴力で打ち消そうとすることのむなしさを訴えなければならない。

 さて、言わなくてはならない、そしてまたもっとも言いたかった「9・11」についてはひとしきり言ったので、その文脈からちょっと距離を置いたところで映画を見てみましょう。
 義足にパラシュートをつけて投下するヘリコプターが結び目となってひとつの円を描く時間。この円の概念はマフマルバフのひとつのイメージだ。「行商人」も一つの時間の円還を描き、「サイクリスト」は回ること自体が映画であり、「パンと植木鉢」にも円を描く時間が出てきた。この円のイメージはハリウッドに代表される西洋の映画の線形の時間に対するアンチ・テーゼだろう。西洋の独善的なものの見方を否定するための足がかりとして時間の概念から突き崩す。そんな意図の現われだと思う。だから線形の時間の捉え方で物語のつじつまを合わせようとしてもそれは無理な話だ。そしてこれをファンタジー、あるいはファンタジックと決め付けて簡単に片付けてしまって疑問を覚えないのは一つの見方でしかものを見られない狭量さである。
 そんな狭量な見方でこの映画をマフマルバフを見ると、映画の中の人々を感じ取ることができない。義足を騙し取ろうとする男や妻の義足を取りに来た男に対処する赤十字の医師の困惑や苛立ちを共有し、彼らを邪険に追い返してしまうことになる。それはこの映画をも追い返してしまうことだと思う。映画の外部から映画の世界に入るには、ブラック・ムスリムの医師のように付け髭をつけて彼らを感じ取ろうとしなければならないのだろう。貧しさですべてを片付けてはいけないと思う。貧しさからすべてを説明しようとしてはいけないと思う。歌を歌うのを見られるのが恥ずかしいという少年ハクとナファスの聞こ
えないところで録音を吹き込むブラック・ムスリムの医師のその相似に、この映画へと入り込む鍵があるのかもしれないと思った。
 円ということに話を戻すと、映画自体も日食に始まり、日食に終わる。その日食はもちろん同じ日食で、これもまたひとつの円還であるのだ。フィルムの最初と最後をつなげば、それは終わることのないエンドレスの物語となる。物語がそのように繰り返されたならば、そこに浮かび上がってくるのはどのようなものだろうかと考えるのは考えすぎだろうか?

キシュ島の物語

Ghesse Haye Kish
1999年,イラン,77分
監督:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
脚本:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
撮影:アジム・ジャヴァンルー、マスード・カラニ、アハマド・アハマディ
出演:ホセイン・パナヒ、ハフェズ・パクデル、モハマド・A・バブハン

 ペルシャ湾に浮かぶ小さな島キシュ島、リゾートとしても知られるこの島を舞台として3人のイラン人監督が撮った短編集。
 1話目「ギリシャ船」は新鋭監督ナセール・タグヴァイが海に浮かぶ錆付いた難破船に流れ着いた大量の段ボールをきっかけにおきた事件を描いた作品。
 2話目「指輪」は日本でも知られているジャリリ監督が、仕事を求めて島へやってきた青年が海辺の小屋でひとり働く姿を淡々と描いた作品。
 3話目「ドア」は巨匠マフマルバフが砂漠をドアを担いで歩く老人を撮った作品。
 どの作品も美しい風景をより美しく見せるような幻想的な物語。音楽というかサウンドも耳に残る印象的なもの。

 やはり、マフマルバフの作品が一番いいかなと思いますが、ジャリリのも捨てがたい。1作目のタグヴァイ監督の作品は日本人が抱くイランというイメージに比較的近いものではないかと思います。貧困、イスラム教、エキゾチズム、ある意味でオリエンタリズム的な中東に対するイメージ、そのイメージに合致するようなイメージで描かれているのが逆に平凡で面白みにかけると思ってしまいます。ただ、海に浮かぶ難破船のイメージは絵的にすごくいいのですが。
 2話目の「指輪」は物語としては一番好きです。ジャリリ監督は基本的に起伏の少ないドラマをとりますが、この作品もその一つ。しかし、淡々と働く青年の姿は辛そうではなくどこか楽しそうで、そこに共感をもてます。しかし、最後までトラックに入れているものが何なのかは分からなかった。イラン人にはすぐ分かるんでしょうね。ただの海水なんだろうかあれ?
 3話目マフマルバフはさすがに発想の勝利。この監督の発想の素晴らしさには舌を巻くしかありません。冒頭の砂漠だけの画面に手前からドアが登場し、それが画面の奥にゆっくり去っていくところをずーと映しているシーン、これだけで、マフマルバフの勝ち。砂漠とドア、どうしてこんなイメージが頭に浮かんでくるのかは全くの謎です。そして、郵便配達が、そのドアをノックした瞬間に本当にマフマルバフはすごいと思ってしまう。奇妙なようでありながら、絶対にこれは現実だと思わせるような何かがそこにあるのです。みんな本気であのドアをドアとして扱っているひとりもからかい半分に扱っている人はいない。そう信じさせることが重要であり、それを成功させているわけです。ただ1人(1匹ね)ヤギだけが…
 やはりマフマルバフ強し。しかし、全体的にはなんとなくキシュ島観光キャンペーンという気もしてしまいました。たしかに「いいとこだな」とは思いましたが、なんか宣伝じみていて、ヴェンダースの「リスボン物語」を少し思い出しました。

パンと植木鉢

Un Instant d’Innocence
1996年,フランス=イラン,78分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:マームード・カラリ
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ミルハディ・タイエビ、アリ・バクシ、アマル・タフティ、マリヤム・モハマッド・アミニィ

 マフマルバフ監督のもとを訪れたごつい男は、20年前に政治少年だった監督が銃を奪おうと襲った元警官だった。その当時の話を映画に撮ろうと考えた監督は少年役のオーディションを行う。元警官の男も自分の少年役の少年を選ぶのだが、監督と意見が衝突してしまう。
 静かで美しい、しかし緊迫感のある作品。いわゆる映画の映画だが、そこに仕掛けられた様々な仕掛けは並みの映画とは違う。

 この監督の作品はいつも不思議ですが、この作品もかなり不思議な作品。過去と現在が、映画と現実が交錯する。その交錯する瞬間を捉えようとする映画をとる人たちをとる映画。そこに現れる緊迫感の波もすごい。「どうなってしまうのか」という緊迫感がひしひしと伝わる場面がある一方で、全くほのぼのとする場面がある。緊迫する場面の最たるものはラストシーンで、こんな設定でものすごくドキドキしてしまうのが不思議。一方、ほのぼのとするシーンはなんとなく微笑がほほに浮かんでしまう。その中で一番すきなのは、元警官とそれを演じる少年が行進の練習をしながら雪の道を歩いていくところ。それは本当に美しく、ほほえましく、感動的だ。
 なんといえばいいのか、美しい映画は見るものから言葉を奪ってしまうけれど、これもそんな映画。とにかく不思議で、美しく、面白い。「サイクリスト」を見ていると不思議さというのはイランという馴染みのない文化のせいなのかと思うところもあったが、この映画を見るとそんなことは全く関係ないのだと思う。ただ美しい映画を撮るために、理解させるという方法論を放棄してしまった映画。そんな感じすらする。しかしそれはいわゆるアート系の難解さとは正反対のシンプルなもの。なんとなく分かるんだけれど、考えてみるとなんだかわからない。そんな不思議さが映画に浸る気持ちよさを演出していると思う。

りんご

The Apple
1998年,イラン=フランス=オランダ,86分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブライム・ガフォリ、モハマド・アーマディ
出演:マスメ・ナデリー、ザーラ・ナデリー、ゴルバナリ・ナデリー、ソグラ・ベロジ、アジジェ・モハマディ

 イラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフの娘サミラ・マフマルバフの初監督作品。父モフセンも脚本で参加している。
 父親が娘を家に11年間閉じ込めて外に出さなかったという実際の事件を元に、本人たちの出演で、その子達がはじめて外に出たときの様子を映画化。世間というものをまったく知らない少女たちの目から見た世界の不思議さを描いた。
 監督はこの事件を社会的な問題として描くのではなく、外の世界をはじめてみた少女たちを中心に描いた。彼女たちから見た世界がいかに驚きにあふれ素晴らしいものであるのか。
 傍若無人な彼女たちの行動がとてもほほえましく、爽やかな気分で見ることができる。 

 この映画は、サミラが父が撮影のためにとってあった機材をかりて、ほとんど準備もせず撮影に入った。ぶっつけ本番、1日撮影しては次の日のプロットを考えてゆくという方法でとられたらしい。しかも、父モフセンは撮影には立ちあわず、サミラが持ち帰った膨大なフィルムを一緒に編集したということらしい。
 この映画にはなかなか楽しい場面がたくさんあるが、ひとつ気に入っているのは、マスメとザーラが一人の少女と友だちになって、その子をたたいてしまうが、りんごを渡して許してもらおうとする場面。りんごは彼女たちにとって宝物のようなものだから、彼女たちにとってはすごく意味のあることなんだろうけど、普通に考えると、理不尽なこと。しかしその辺りがかわいいのではある。
 この作品はカンヌ映画祭の<ある視点>部門に正式出品され、カンヌ映画祭史上最年少監督(18歳)として話題になった。