ガールファイト

Girlfight
2000年,アメリカ,110分
監督:カリン・クサマ
脚本:カリン・クサマ
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:セオドア・シャビロ
出演:ミシェル・ロドリゲス、ジェイミー・ティレリ、ポール・カルデロン、サンティアゴ・ダグラス

 今年で高校を卒業するダイアナはブルックリンの公営住宅に住み、学校ではけんかばかり繰り返していた。ある日、弟のボクシングジムに月謝を払いに行ったダイアナは、弟に汚い手を使った少年を殴る。次の日、ダイアナは再びジムへ赴き、トレーナーにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
 単純なスラムの少年少女という映画ではなく、上品に、しかし堅実にその姿を描いていく。監督は日系アメリカ人で、この作品がデビュー作となるカリン・クサマ。サンダンスで最優秀監督賞も受賞。人種が混交する状況を地味だけれどリアルに描いた佳作。

 こういう映画はヒロイズムに陥りやすい。一人の少女がボクシングに目覚めるとすると、彼女はたとえば女子ボクシング界で頂点に立つとか、そういった筋立てに。しかし、この映画はそのような筋立てにはしない。
 かといって、人種問題を前面に押し出すかといえば、そうでもない。最終的にメインとなる恋物語の相手がプエルトリカンであったり、ボクシングのコーチもヒスパニックであったりして、混交している状況は示されているけれど、必ずしもそれが貧困や差別につながるとは表現していない。
 そのような微妙なスタンスの取り方が映画全体を地味にしている。ひとつの見方としては、人種などを超えた普遍的な物語として描きたかったという見方もあるだろう。なら、どうして黒人なんだと思うけれど、もし白人の女の子がボクシングをやったとしたら、それは全く異なる物語になってしまっただろうし、そこからたち現れてくるのはやはりやはりヒロイズムか、『チアーズ』のような平等の幻想だけだろう。だから、このような人種混交の状況の中にある一人の貧しい少女を描こうとすると、人種は必然的に有色人種になってしまう。
 ということは、人種を超えた普遍的な物語などありえないという主張であるのかもしれない。「普遍」というまやかしをまとうことなく、映画を作る。それは一種、観客を限定することであり、産業的には不利に働くかもしれない。たとえば、スパイク・リーの映画はあくまで黒人映画であり、全米であまねく見られうというわけではない。そのような意味でこの映画も(黒人映画ではないけれど)観客を限定しているのだろう(映画祭によってその不利はある程度払拭されただろうけど)。

 逆に問題なのは、最終的にラブ・ストーリーに還元してしまったことだろうか?物語の最初も恋愛の話で始まり、主人公はそれに反発しているのだけれど、それが最終的にラブ・ストーリーに還元されてしまうと、なんだかね。途中、父親に食って掛かるシーンなどはかなり秀逸で、そういう勢いのあるシーンを物語にうまくつなげていければ、すばらしい映画になったような気がします。
 この展開だと、ひとつの少女の成長物語で、学校も家族も乗り越えるべきひとつのもので、最終的にたどり着くものは愛(恋)だというような話になってしまう。そのように単純化できてしまう物語はなんだかもったいない気がしてしまいます。

木靴の樹

L’Albero Degli Zoccoli
1978年,イタリア,187分
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ

 19世紀末のイタリアの農村、地主に収穫の3分の2を取られながら、その土地にすがるしかない農民たち。そんな農民の一人バティスティは神父に進められて息子を学校にやることにした。しかし、生活は依然として苦しい。
 貧しい農民たちの暮らしを淡々と描く作品。舞台を19世紀末と設定したことによりかろうじてフィクションの形をとっているが、映画の作り方としてはドキュメンタリーに近いものといえる。

 この映画がフィクションであると断言できるのは、最初に説明される19世紀末という設定があるからである。この映画が撮られた時代を含む現代ではこのような農村は存在しなくなってしまい、このような映画をドキュメンタリーで撮ることは難しくなってしまった。だから、この映画はフィクションとしてとられるしかなかったのだ。しかし、あえて言うならばこの映画はドキュメンタリーであってもよかった。ありえないことは承知でこれを19世紀末の農村に関するドキュメンタリーと言い切ってもよかったはずだ。
 この映画で19世紀末の農民たちを演じているのはおそらく現代の農民たちで、彼らは自分たちの先祖を追体験しているのだ。それほどまでにこの映像は真に迫っている。農民たちの真剣な目、土に向かうひたむきな姿勢、機械のない前近代的な農業にしか宿ることのない美しさがそこにある。
 ここに見えてくるのはフィクションとドキュメンタリーの、あるいは劇映画と記録映画の境界のあいまいさだ。この映画で作家が提示したかったものは、現代には存在せず、19世紀にしか存在しなかった。それが具体的になんであるかということはこの映画はあからさまには主張しないが、おそらく現代に対する一種の批判であるだろう。人と家畜が、あるいは人と植物が、人と土が親密であった時代から現代を批判する。もちろん、その時代はただ美しいだけではなく、非人間的な生活を強要され、生きにくい時代でもあっただろう。この映画はその両方を提示しているが、力点が置かれているのは美しさのほうだ。だから、彼らが悲劇的な境遇から救われたり、自ら抵抗の道を選ぼうとはしない。これがフィクションであり、ひとつのドラマであり、虐げられた人々のドラマであると了解している観客は彼らがどこかで立ち上がり、自由を勝ち取るのだと期待する。そのように期待して遅々として進まないストーリーを追い、画面の端々に注意を向ける。

しかし、この映画ではそのような抵抗や革命は起こらない。それはこの映画から数十年前に同じイタリアで作られたネオ・リアリズモ映画ならありえた展開だが、この映画ではそれは起こりえない。観客は裏切られ、この映画の劇性に疑問を持つ。しかし、観客が裏切られたと気付くのはすでに映画を見始めてから2時間半が経ったときである。単純な日常を切り取っただけの映画、まるでドキュメンタリーのようなフィクション。そのとき観客はすでに、そのような映画であるとわかった映画の世界に入り込んでしまっている。ドキュメンタリーであるフィクション。黙ってただ立ち去る彼らを見ながら、やり場のない怒りを感じながら、しかしその怒りを映画に向けるわけにはいけないことを知っている。これはドキュメンタリーであって、フィクションではないのだから、映画には結末を操作できないのだと。そのような幻覚を抱かざるを得ない。彼らは別の土地に移り住み、やはり土とともに生き、しかし今よりさらに過酷な生活を強いられるのだとわかっているから。

四畳半襖の裏張り

1973年,日本,72分
監督:神代辰巳
原作:永井荷風
脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久
音楽:菊川芳江
出演:宮下順子、丘奈保美、絵沢萌子、江角英明

 大正中期の東京の花街、芸者の袖子は客に呼ばれ座敷に上がる。客は30代くらいのちょっといい男。男は早速袖子を寝屋へと連れて行く。「初会の客には気をやるな」という黒地に白の字幕が出て、ふたりは蚊帳の中布団の中で格闘し始める…
 永井荷風の小説を映画化した日活ロマンポルノの名作。ポルノはポルノだが、非常に不思議な映画。

 とても変な映画ですよこれは。ポルノ映画なので、袖子は冒頭からセックスシーンに突入し、それは延々と30分くらいまで続くわけですが、それと平行して花枝の物語が語られる。兵隊さんが出てきて「時間がないんだよ~」といっているのも面白いですが、それはともかくその二つの物語の間の切り替えが不思議。袖子のあえぎ声からいきなりトイレ掃除のシーンに飛んだり、その飛び方が尋常ではないわけです。
 そのミスマッチに笑ってしまうけれど、真面目な顔して考えてみると、それが現実というものなのかもしれない。映画というものは概してセックスにロマンティシズムを持ち込みすぎ、それを何か現実と乖離したもののように描いてしまいがちではないですか。ポルノ映画は一般的にはロマンティシズムとは逆の方向で現実からかけ離れたものとするけれど、この映画はセックスを見事に現実の只中に投げ込む。
 同時に描かれる戦争というものも本来は現実とはかけ離れたところにあるものだけれど、セックスというものを介在させることによってそれを現実に近づける。生活とセックスと戦争とが密接にひとつの現実として立ち現れてくるような空間。そんな空間がこの映画にはあるのではないでしょうか。
 そんな風に空間が成り立ちうるのはこの映画が描いているのが花街であり、セックスと非常に近いところにいる人たちだからだという風に最初は思うのですが、話が進むにつれその考えが間違っていたと思うようになる。後半は花街の人たちだって他の人たちとちっとも変わらないということが描かれているような気がする。それに気づかせてくれるのは最後のシークエンス。そして(ついつい笑ってしまう)終わり方。

修羅雪姫

1973年,日本,97分
監督:藤田敏八
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:長田紀夫
撮影:田村正毅
音楽:平尾昌晃
出演:梶芽衣子、赤座美代子、中田喜子、黒沢年男

 明治6年、八王子の監獄で鹿島小夜は娘を産み落とす。娘の名は雪、小夜は雪に自分の仇をとり、恨みを晴らして暮れといいながら死んだ。時はたち、大人になった雪は蛇の目傘に仕込んだドスで人を斬る見事な暗殺者になっていた。そして彼女は母の仇を捜し求める…
 当時連載されていたコミックの映画化。とにもかくにも全体に徹底されているB級テイストがたまらない。もしかしたら、コメディかも。

 見た人には何を言わなくてもわかってもらえる。しかし見た人はあまりいないだろうということでちょっと説明しつつレビューしていきましょう。
 最初人が殺される場面の血飛沫の激しさ、そしてその血の色の鮮やか過ぎるところ。これを見て、なんか安っぽいなと思ってしまうのが素直な反応。しかしこの映画、その安っぽさを逆手にとってというか図に乗ってというか、とにかく血飛沫血飛沫血飛沫。とにかく飛び散る血飛沫。大量の血。しかし決して生々しくないのはその血があまりににせものっぽいから。伴蔵の血で染まった海の赤さ。「そんなに赤くならねーだろ、おい!」
 いとも簡単に血飛沫が飛び、急所をついてないのに糸も簡単に死んでしまう人たち。一太刀で出血多量にしてしまう雪の剣がすごいのか? そんなはずはないのですが、辻褄を合わせるにはそれくらいしか説明のできないすごさ。そのような映画の作り物じみさ、狙った過剰さ。そこに気づくと、映画の後半はひたすら忍び笑いの時間になります。そしてそのクライマックスは北浜おこの。これは見た人だけが共有できる思い出し笑い。
 こういうテイストの映画は日本にはあまりない。全くないわけではないですが、妙に茶化してしまったりして、こんなくそまじめなようでいて目茶目茶おかしいという映画はなかなかないのです。あるとすれば、60年代から70年代の埋もれた映画でしょう。京マチ子主演の『黒蜥蜴』などもかなり爆笑映画でした。最近では『シベ超』『DOA』といったところが、そんな映画の代表でしょう。うわさでは『幻の湖』という名作もあるらしい。そのような「バカ映画」といってしまうと語弊がありますが、そんな映画がはわたしは好き。

おかえり

1996年,日本,99分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:古谷伸
出演:寺島進、上村美穂、小松正一、青木富夫、諏訪太郎

 塾講師をしている孝と家でテープ起こしの仕事をしている百合子。結婚して3年、何の問題もない夫婦生活のように見えた。しかし、あるときを境に、百合子が不意に夜出歩いたり、真っ暗い部屋で孝の帰りを待っていたりという不思議な行動をとるようになった。それを見て孝も不審に思い始めるが…
 これがデビュー作となる篠崎誠は北野武作品で味のある脇役ぶりを発揮していた寺島進を主演に起用。カメラマンには東映のチャンバラモノで鳴らしたベテラン古谷伸の参加を得て完成度の高い作品を作り上げた。

 見る人によって様々な部分が刺さってくると思う。非常に地味で淡々としていて、公開当時には監督も役者もほぼ無名で、全く商売っけのない映画。そしてもちろんヒットもせず、埋もれてしまいそうだった映画。しかしやはり面白い映画は埋もれない。見てみればそこには鋭い描写がたくさんあり、そのどこかが見ている人に刺さってくるに違いない。
 この映画で注目に値するのはなんといっても役者の演技。もちろんそれを引き出しうまく映画に載せたのは監督だけれど、素直にこの映画を見て感じるのは登場する役者達の素晴らしさ。私が一番すごいと思ったのは孝と百合子が台所で座り込んで話すというか抱き合うというか、そういうシーン。その長い長い1カットのシーンの2人の表情はものすごい。シーンの初めから終わりまでの間に刻々と変化していく2人の顔は何度も繰り返し々見たいくらいに力強く、おそらく見るたびごとに異なる感情が伝わってくると思う。
 このシーンもそうですが、この映画に多分に盛り込まれている即興的な要素。必ずしもアドリブというわけではないけれど、脚本や演出ではない役者に属する部分が色濃く出ている要素(誰かがどこかでカサヴェテスを取り上げて広義のインプロヴィゼーションと呼んでいた気がします)もひとつ興味を引く部分です。この即興的な要素は90年代以降の日本映画にかなり頻繁に見られるもので、代表的なところでは諏訪敦彦や是枝裕和や橋口亮輔の名前が上がるでしょう。つまりこれは今の日本映画の流行ともいえるモノですが、それはこの「おかえり」やその同時代の作品から顕著になってきたといえるかもしれません。
 まあ、そんなジャンル的な話はどうでもいいのですが、このお話で私は、日本映画を敬遠している人にこの映画を見なさいといいたい。陳腐な言い方で言ってしまえばここに現代の日本映画が凝縮されていると。
 言ったそばから自分の言ったことを否定したい気分ですが、まあ宣伝文句としては上々でしょう。でもビデオはレンタルされていないので機会を逃さず見てくださいとしかいえませんが。
 さて話がばらばらになってしまっていますが、この映画にはとてもいいシーンがたくさんあります。しかしよくわからないシーンもあります。ひとつは孝が同僚と飲んでいる時にインサートされる飲み屋のおやじ、もうひとつは3回出てくるマンションから見下ろした夜の道。なんなんだろうなぁ、と思いますが、こういう物語とつながりのない部分がずっと印象に残っていたりする場合もあります。だからこれも無駄ではない。あるいは無駄にも意味がある。そのようなことも思ったりしました。

バスを待ちながら

Lista de Espera
2000年,キューバ=スペイン=フランス,106分
監督:ファン・カルロス・タビオ
原作:アルトゥーロ・アランゴ
脚本:ファン・カルロス・タビオ、アルトゥーロ・アランゴ、セネル・パス
撮影:ハンス・バーマン
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ウラジミール・クルス、タイミ・アリバリーニョ、ホルヘ・ベルゴリア、アリーナ・ロドリゲス

 キューバの田舎にあるバス停留所。そこにやってきたエミリオはやってきたバスに群がる人々を目にする。しかしバスはひとりの少女を乗せただけで走り去ってしまい、待っていた乗客たちはバスに悪態をつくのだった。待ちくたびれた乗客たちは修理中のバスに望みをかけるのだったが…
 「苺とチョコレート」のスタッフ・キャストが再び集まって作られたコメディタッチのやさしいキューバ映画。日本にはあまり入ってこないキューバ映画でもいい映画はあるものです。

 バス停に長くいたら、バス停に愛着が湧くものなのか? そもそもバス停に長くいることがないので想像しにくいですが、普通に考えたらありえそうもないことなので、彼らがバス停をまるで家のように考えるようになるに連れ、どんどん笑えて来ます。それはなんだかやさしい笑い。「いいように考えるんだ」とエミリオも所長も映画の中で言っていましたが、まさにそのきわみという彼らの姿勢はどんな状況でも救われてしまうような勢いを生む。明るさを生む。そして見ている側にまで、その明るさとやさしさを分け与える。そう感じました。
 だから、一度オチた後の展開も最後の結末も、納得し微笑み、大きな心で受け入れて笑って終わることができる。バスを待っている時点でも、一度オチたあとでもその物語が現実であると実感をもって理解することはできないのだけれど、それが現実であって欲しいと望んだり、現実としてありうるかもしれないと思ったりする、それくらいの現実感を生み出す力がこの映画にはある。
 キューバ映画があまり日本に入ってこないことの理由のひとつに検閲の問題がある。現在でも社会主義国家であるキューバの映画は国家によって検閲を受ける。その検閲を通らなければ、映画を上映することはできないし、おそらく相当な苦労をしなければ海外に持ち出すこともできず、その映画は埋もれていく。だから、日本であるいは世界で見られるキューバ映画のほとんどはキューバ政府の検閲を通ったものである。この検閲というのは基本的には不自由を意味し、完全にマイナスなことであると理解される。もちろん自由に映画を作れないことは映画界全体にとってはマイナスだし、意欲的な作家はキューバを出てもっと自由に映画を撮りたいと思うだろう。しかし、この検閲という体制の下でもいい映画は生まれる。検閲とは映画にとっての制限のひとつに過ぎない。映画には他にも資金や期間、あるいはそもそもフレームという制限がある。その制限の中でいかに表現するかが作家の力量であり、それが芸術というものだと思う。だから必ずしも検閲があるから面白い映画は生まれないというわけではないだろう。いまや映画大国となっているイランにも検閲は存在するし、日本の映倫も自主規制とはいえ検閲の一種であるだろう。
 話がまとまらなくなってしまいましたが、要するにもっといっぱいキューバ映画を輸入して! ということですかね。埋もれた名作がきっとたくさんあるはず。

深紅の愛

Profundo carmes
1996年,メキシコ=フランス=スペイン,114分
監督:アルトゥッーロ・リプスタイン
脚本:バス・アリシア・ガルシアディエゴ
撮影:ギリェルモ・グラニリョ
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
出演:レヒナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、マリサ・パレデス

 コラルは二人の子供を抱え、看護婦で何とか生計を立てていたが、ひとり身であることから欲求不満がたまる。太ってしまったことを気にしながら、雑誌の恋人募集欄で見つけたニコラスという男性に手紙を書く。ニコラスは鬘をかぶり、手紙を送ってきた女性を騙す詐欺しまがいの男だったが、コラルはニコラスに恋をしてしまう。しかし、その恋はコラルの運命を変えてしまった…
 実話をもとにメキシコの巨匠リプスタインが映画化した作品。画面もリズムも物語りもどこか不思議な違和感を感じさせるところがとてもいい。

 冒頭のシーン、鏡に映りこんだポートレイトから始まり、同じく鏡に映りこんだベットに横たわり雑誌を読むコラルが映る。そのあと一度鏡を離れ、再び今度は違う鏡にうつる。そしてさらにベットに横たわるコラルを今度は直に。このカメラの動きにいきなりうなる。技術論うんぬんという話はしたくないですが、鏡を使うのが難しいということだけ入っておきたい。カメラを動かしても不必要なものが鏡に映りこまないようにものを配置することへのこだわり。これは難しいからすごいということではなく、そのような面倒くさいことをやろうというこだわりがすごいということ。さすが巨匠といわれるリプスタインだなという感じです。
 このシーンでさっと身構えたわけですが、この映画はかなりすごい。まったくもってマイナーな作品だと(多分)思いますが、まさに掘り出し物。そのすごさは映画の完成度にあるのではなく、その煩雑さにある。まずもって画面が煩雑、様々な色彩が画面に混在し、ものがごちゃごちゃとしていて落ち着かない。それはすっきりとした画面を作るより難しいこと。主人公2人のキャラクターも秀逸。パッと見、全く魅力的でなく、画面栄えしない2人だが、その姿が煩雑な画面にマッチし、なんともいえないリアルさをかもし出す。さらにコラルは物語が進むにつれて魅力的に見えてくるから不思議、そしてニコラスの鬘に対する恐ろしいまでの執着、2人の異常性へのさりげない言及などなど、細かな配慮がすべてにおいて効いている。
 プロットの面でも、ひとつひとつのエピソードを追っていかないところの違和感がいい。「このあとどうなるんだ?」という疑問を浮かべさせるようなエピソードの終わり方をしていながら、その後を追うことはしない。疑問符がついたまま次の展開へと移ってしまう。その投げ出し方の違和感がいい。だから結末の投げ出し方がもつ違和感にもかかわらず、見終わって感動すら感じてしまうのかもしれない。
 なかなかこういう違和感というのは表現しにくいものですが、これはつまりいわゆる一般的な映画とは違うという意味での違和感。完璧な舞台装置のまえで演じられるひとつの劇としての映画との齟齬感。しかもそれが偶然によるのではなく、作り出されたものであるということがひとつ重要である。それはつまり映画を否定しようという試み、いわゆる映画とは異なった映画を作り出そうという試み。そのような試みが顕れてくるような映画を私は愛したいのです。この映画もひとつそんな否定の可能性を孕むものとして面白いということ。これを不出来なメロドラマとしてみるのではなく、ひとつの挑戦であると見ることに快感があるのです。

ボディ・ドロップ・アスファルト

2000年,日本,96分
監督:和田淳子
脚本:和田淳子
撮影:白尾一博、宮下昇
音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ、尾木真琴、田中要次、岸野雄一

 どこにでもいるような女の子・真中エリ。仕事もなく恋人もない彼女が自分の妄想・頭のざわざを言葉にする。それは理想の自分を書くことだった。そんな彼女の書いた小説が思いがけずベストセラーに。新進小説家となったエリは思い描いていた理想の生活を手に入れたはずだったが…
 アヴァンギャルドな短編映画を撮ってきた和田淳子監督の初の長編作品。映画の概念から外れかねないくらいまで映画を脱構築したこの作品は、アヴァンギャルドでありながらユーモアにとんだ分かりやすい作品に仕上がっている。

 かなりすごい。冒頭のシークエンスからすでにこの映画の要素が濃縮されて収めれられています。それはアヴァンギャルドさであり、映像の突飛さであり、一種の安っぽさである。足ばかりを執拗に映すという試みと、ホームビデオのようなドットの粗い字幕、その実験性とチープさに期待感をあおられる。そして、続くモノローグのシークエンスはそれ自体アートであるところの映像作品として作られており、それでいながらどこかで転調するに違いないという予想を抱かせる。その予想は一種の驚きと共に実現され、そこからはなだれ込むように魅惑の世界が広がっていく。
 などと感想もまたどこかアートっぽくなってしまう感じですが、実際のところこの映画はかなり笑いにあふれ、非常に分かりやすく、面白い。小難しく見ることと素直に楽しく見ることが同時にできるようなそんな映画。私が一番気に入ったのはやはり「初台の吉野家」。見た人にしかわからないのですが、見た人は絶対うなずく。あの部分のネタとそれを紡ぐ映像はまさに絶品。そんな笑える部分にこそこの映画の魅力があると私は思います。
 しかし、笑いにも様々な種類があって、単純にネタとして面白いものもあれば映画であるからこそ面白いものもある。映画として面白い笑いというものは概していわゆる映画からそれることで笑いを作り出すものであり、それは映画を壊すことから始まっている。それはある種の(映画としての)突飛さであり、この突飛さこそがこの映画の全編に共通する特徴であるということ。
 映画をこわし、脱構築することはいま面白い映画を撮る一つの方法であり、この映画の突飛さも一種の映画の破壊であるという点では、その方法論に乗っている。しかし、脱構築に成功している映画というのはすべてが全く違う方法論にのっとったものであり、一つの方法論というものは存在しない。新たな破壊の方法を見つけなければ映画をこわすことは不可能なのだ。だからすべてが全く違う映画であり、全く違う面白さがある。しかしその脱構築と言うものはなかなか成功しないものである。
 と、小難しく書いてみましたが、要するにいわゆる映画というものをこわすことから映画は始まるのです。それは実はすべての映画に当てはまることであって、これまでの映画の何かをこわした映画だけが本当に面白い映画なのだと言うこともできるのです。
 この映画は映画をこわし、それは笑いへと昇華させ、しかも映画として完成させている。それはものすごいことで、この映画の感想はと聞かれたら、開口一番「すごい!!!」とエクスクラメーションマーク×3で答えるしかないほどすごいのです。
Database参照

コヨーテ・アグリー

Coyote Ugly
2000年,アメリカ,101分
監督:デヴィッド・マクナリー
脚本:ジーナ・ウェンドコス
撮影:アミール・M・モクリ
音楽:トレヴァー・ホーン
出演:パイパー・ペラーボ、マリア・ベロー、アダム・ガルシア、ジョン・グッドマン

 ニュージャージにすむヴァイオレットはソングライターを目指してNYに上京した。早速空き巣に入られ落ち込んでいるヴァイオレットが入ったカフェでたまたま見かけた元気いっぱいの女の子達がバー「コヨーテ・アグリー」で働いていると聞き、翌日店に押しかけてみることに…
 NYの実在のクラブから着想を得た脚本にヒットメイカーのジェリー・ブラッカイマーがのって実現した映画。監督からキャストにいたるまでほとんどがノーネームの人材ながらかなりの完成度で、気軽に楽しく見られる作品。

 こういう種類のアメリカンドリーム話(恋愛付き)はハリウッド映画のお得意だが、数が多いわりに文句なく面白いものはあまりない。となると「プリティ・ウーマン」的な定評のある有名俳優が出演しているものを見てしまいがち。そんな中で有名な役者といえば、ジョン・グッドマンぐらいで、監督も何も聞いたことないというこの映画はかなりの掘り出し物ということになる。
 何がいいのかといえば、おそらくスピード感。ひっきりなしに流れる音楽というのもいいし、ほとんど止まることがないという印象を与える映像もいい。止まることがないというのはカメラが常に動いているというのもあるし(たとえば、ヴァイオレットと父親が会話する最初のほうの場面では、単なる切り返しなのに、カメラは緩やかにズームインしていた)、1カットが短いということもあるでしょう。後はやはり音楽ですか。屋上でキーボード弾いてるところをクレーン撮影で追うところなど、ちょっと前のMTVのミュージッククリップという感じです。映像が音楽のようにリズムに乗っていて見ているものを引き込む。そのもって生き方が非常にうまいと思います。

 そして、こういったアメリカン・ドリーム話というのは果てることがなく、人気も常にある。広大な田舎とほんの少しの都会、そんな社会状況がこういった物語を次々と生み出す。この映画の主人公の出身地はニュージャージーで別に相遠いわけではない。ニューヨークに通おうと思えば通えないわけではない。しかし、世界的に場所場所間の距離が縮まってきている現代では田舎とはそのようなものでしかないということ。日本ではその状況は特に強まり、ニュージャージというと東京に対する栃木・群馬あたりの感覚だろうか。通勤圏だけれど、そこから東京に出てくる人もやはりたくさんいる。そのような都会の夢というのは逆に都会から田舎へと出て行く人が増える中でも生きているのだなぁと思いました。
 すっかり映画とは関係のない話になってしまいましたが、要するにこの映画のニューヨークというのは田舎の人の視点から見たニューヨークで、それはもちろん日本人の見るニューヨークに近い。すさんだ都会ではあるけれど、知り合ってみればいい人ばかり。実際のところはどうかわからないけれど、イメージとしてはそういうものなのではないかしら。「都会は怖い」と言いはすれ、イメージする材料は自分の経験しかないので、尽きるところ田舎の延長でしかない。本当の経験ではもっともっと予想外のものに出会うんじゃないかという気もします。

 本当に映画とは関係のない話になってしまいましたが、この映画を2度見て、単純な娯楽としてみるその奥を見たら何が見えるか考えてみたら、そのようなことを思いつきました。広げれば「中心-周縁」の文化論見たいなものになるかもしれないので、こういうのも無駄ではないのではなかろうか。