サミュエル・L・ジャクソン in ブラック・ヴァンパイア

安っぽくはあるが、スリルもホラーも実現したこれぞB級映画!

Def by Temptation
1990年,アメリカ,95分
監督:ジェームズ・ボンド・三世
脚本:ジェームズ・ボンド・三世
撮影:アーネスト・R・ディッカーソン
音楽:ポール・ローレンス
出演:ジェームズ・ボンド・三世、サミュエル・L・ジャクソン、カディーム・ハーディソン、ビル・ナン

 ニューヨークのとあるバーの常連の女は夜な夜な男を引っ掛けてはその男を殺害していた。牧師志望のジョエルは友人のKを頼ってニューヨークにやってくる。その夜、バーでその女と出会い、意気投合する。その女は実はジョエルをずっと狙っていた…
 ジェームズ・ボンド・三世監督・脚本・主演によるB級サスペンス・ホラー。安っぽいが見ごたえはなかなか。

 この“女”は生き血を吸ういわゆる“ヴァンパイア”ではないわけで、この邦題はどうかと思うが、まあそれはおいておいて、この“女”が男をだまくらかして殺してしまったり、破滅させてしまったりという序盤の展開はなかなか面白く、そして恐ろしい。

 そして、主人公のジョエルがニューヨークにやってくるタイミングでジョエルの友人のKが女と知り合うという、わかりやすいけれどその後の展開に期待を抱かせるプロットもうまいし、その“女”が男を引っ掛けるバーにいつも居合わせるいい加減な男の存在も思わせぶりでいい。つまり、決してよく出来たプロットではないのだけれど、それなりのスリルとそれなりの魅力があるということだ。

 そして終盤はというと、凝った特殊メイクや特撮、非現実的な展開、宗教的モチーフと盛りだくさんになる。どれもこれも安っぽくはあるのだけれど、この作品の世界観にはあっているし、90年という製作年を考えると、それなりにいい出来ではないかと思う。

 総じて見ると、これぞまさにB級映画!という印象。いまやビッグ・ネームのサミュエル・L・ジャクソンが出てはいるが、まだブレイク前だし、予算はかけず、題材もバカバカしい。しかし宗教的なテーマを扱ったりして単なるバカ映画というわけではない。中盤、Kがジョエルにニューヨークについて語るところなどは少々哲学的ですらある。

 ジェームズ・ボンド・三世も子役出身でこの作品を最後に映画界を去った。その後何をしているのかとか、なぜ映画界を去ったのかはわからないが、これだけの作品を作れるのだからちょっと残念という気もする。子役は大成しないというのは通説だが、それはあくまでも俳優としての話で、監督や脚本という別の職掌ではその限りではないのかもしれない。まあ言っても仕方のないことだが…

 そして、ブラック・ムービーとしても十分に映画史の1ページに加えうる作品だ。ジェームズ・ボンド三世もサミュエル・L・ジャクソンも重要な脇役で出演しているビル・ナンもスパイク・リー監督の『スクール・デイズ』の出演者であり、この映画には完全に黒人しか出演していない。人種に対する何らかの主張がなされているわけではないが、いわゆる“普通の”映画との違いがこの映画がまぎれもなく黒人映画であることを主張しているように思える。

 B級スリラーファンか黒人映画ファンなら観ても損はない作品だろう。

地獄の警備員

1992年,日本,97分
監督:黒沢清
脚本:富岡邦彦、黒沢清
撮影:根岸憲一
音楽:船越みどり、岸野雄一
出演:久野真紀子、松重豊、長谷川初範、諏訪太郎、大杉漣

 タクシーで渋滞に巻き込まれる女性、彼女は一流企業曙商事に新しくできた12課に配属された新人社員。同じ日、警備室にも新しい警備員が雇われる。ラジオでは元力士の殺人犯が精神鑑定により無罪となったというニュースが意味深に流れる…
 ホラーの名手黒沢清の一般映画監督第2作。日常空間がホラーの場に突然変わるという黒沢清のスタイルはすでに確立されている。怖いことはもちろんだが、映画マニアの心をくすぐるネタもたくさん。いまや名脇役となってしまった松重豊のデビュー作でもある。

 この映画にはいくつか逸話じみた話があって、その代表的なものは、大杉連が殴られて倒れるシーンは、日本映画で初めて殴られ、気絶する人が痙攣するシーンだという話です。実際のところ、人は痙攣するのかどうかはわかりませんが、普通の映画では殴られた人はばっさりと倒れて、そのままぴくりともしない。この映画では倒れた人がかなりしつこく痙攣します。アメリカのホラー映画なんかでは良く見るシーンですが、確かに日本映画ではあまり見ない。
 わたしはあまりホラー映画を見ていないのでわからないのですが、有名なホラー映画のパロディというか翻案が多数織り込まれているという話もあります。

 まあ、そんなマニアじみた話はよくて、結局のところこの映画が怖いかどうかが問題になってくる。一つのポイントとしては、最初から富士丸が怖い殺人犯であるということが暗示されているというより明示されている。というのがかなり重要ですね。誰が犯人かわからなくて、いつどこから襲ってくるかわからないという怖さではなくて、「くるぞ、くるぞ、、、、来たー!!」という恐怖の作り方。それは安心して怖がれる(よくわかりませんが)怖さだということです。 そんな怖さを盛り上げるのは音楽で、この映画では「くるぞ、くるぞ、、、、」というところにきれいに音楽を使っている、小さい音から徐々に音が大きくなっていって「くるぞ、くるぞ、、、」気分が盛り上がるようにできている。このあたりはオーソドックスなホラーの手法に沿っているわけです。だからわかりやすく怖い。
 しかし、(多分)一か所だけ、その音楽がなく、突然襲われる場面があります。どこだかはネタばれになるのでいいませんが、見た人で気付かなかった人は見方が甘いので、もう一度見ましょう。
 そういう場面があるということは、そういう音による怖さの演出に非常に意識的だということをあらわしていて、それだけ恐怖ということを真面目に考えているということ。もちろん、考えていないと、これだけたくさんホラー映画をとることはないわけですが、こういうのを見ていると、恐怖を作り出すというのは、本当に難しいことなんだと感じます。

 ホラー映画が好きでなくても、映画ファンならホラー映画を見なければなりません。ホラーというのは新たな手法を次々と生み出しているジャンルで、そこには映画的工夫があふれている。ホラーではそれが恐怖という目的に修練されていて、その工夫の部分がなかなか見えてこないけれど、実は工夫が目につくような映画よりも新しいこと、すごいことをやっている。
 だから、たまにはホラー映画も見ましょうね。

es[エス]

Dar Experiment
2001年,ドイツ,119分
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
脚本:ドン・ボーリンガー、クリストフ・ダルンスタット、マリオ・ジョルダーノ
撮影:ライナー・クルスマン
音楽:アレクサンダー・フォン・ブーベンハイム
出演:モーリッツ・ブライブロロイ、クリスチャン・ベルケル、オリヴァー・ストコウスキ

 タクシー運転手のタレクは「被験者求む」という広告を見つけ、それに応募する。その実験は集まった被験者たちを囚人役と看守役に分け、それによる精神の変化を見ようという実験だった。その実験が行われる直前、タレクは美しい女性に車をぶつけられ、そのまま一夜を過ごすという不思議な体験をする…
 過去に実際に行われ、被験者たちへの精神的影響があまりに大きく、途中で中止されてしまった。現在は心理上の問題もあり、全面的に禁止されている。この映画は実際に行われた実験をもとにして作られている。

 怖すぎます。
 この恐怖はどこから来るのでしょう。それはあまりに起こりえる出来事だから。簡単に想像できる恐怖だから。簡単に想像はできるけれど、同時にその恐怖に耐えられないことも容易に想像できる恐怖だから。
 この映画は実験を行う側についても描かれ、恋愛の話なども挟まれ、ちょっとこねたプロットになっているのだけれど、そんなことはどうでも良く、とにかく実験の中身、行われている実験のほうにしか興味は行かないし、それだけで十分であるともいえる。
 言葉にしてしまうと月並みになってしまうけれど、普通の人がいかに攻撃的に、あるいは暴力的になりうるのか、自制心を、良心を失うことができるのか。その変化は劇的なようでいて、意外に簡単なものである。結局はそういうことだ。この映画はもちろんそういうことを示唆するし、そこから考えるべきことも多く、恐怖の源もここにある。
 しかし、わたしはこの映画が成功している最大の秘密は具体的な恐怖の作り方にあると思う。ホラー映画の基本は観客に「来るぞ、来るぞ」と思わせておきながら、それでも予想もしない瞬間に観客を襲うという方法。その盛り上げ方が周到で、その遅い方が意外であるほど、観客を襲う恐怖も大きい。この映画はそんなホラー映画の文法をしっかりと守る。観客が頭の中で恐怖心を作り出せるように周到なプロットを練り、それを意外なところで爆発させる。

 なんだろう、映画の途中で囚人役の一人が「ナチス!」と口走るように、この心理作用はあらゆる集団操作に使われているし、この後も使われる危険はある。そのことを説得的に語るのではなく、純粋な恐怖として語るというのは作戦としてすごい。見ている間は完全な娯楽作品というか、サスペンスとしてみることができるけれど、見終わって「アー、怖かった」と振り返ってみると、また現実における恐怖がわきあがってくる。そういう意味では一度で二度怖いという言い方もできる。
 ファシズムには負けないぞ!

シャイニング

The Shining
1980年,イギリス,119分
監督:スタンリー・キューブリック
原作:スティーヴン・キング
脚本:スタンリー・キューブリック、ダイアン・ジョンソン
撮影:ジョン・オルコット
音楽:ベラ・バートック、ウェンディ・カーロス
出演:ジャック・ニコルソン、シェリー・デュヴァル、ダニー・ロイド

 小説家のジャックはコロラドの山の中にあるホテルが冬期閉鎖される間の管理人として仕事を得る。以前孤独感に耐えられず、家族を殺し、自分も自殺した管理者もいるという話を聞いても動じずジャックは仕事を請けたが、予知能力のある息子のダニーは血が川のように流れ、二人の少女がたっているというホテルの夢を見る…
 キューブリックがスティーヴン・キングの原作からは離れ、ホラーという形式を借りて、独自の世界観を表現した作品。全体的なメッセージを読み取ることは難しいが、観客に何かを感じさせる力強さを持っている。

 ジャック・ニコルソンの顔は常に怖い。それだけで十分にこの映画は怖いのだけれど、わたしの頭にこびりついていたのは「REDRUM」という文字だった。映画の中で果たす役割は決して高くないけれど、意味もわからない赤い文字が何度もフラッシュバックのように映りこむことの恐怖、その恐怖がはじめてみた10数年前に感じた恐怖であったことを今見て思い出す。
 それはそれとして、この映画はかなり完成度が高い映画だ。キューブリックらしく、『2001年』のように難解で、全体としてそのメッセージを捉えることは難しい。しかし、映画としての世界を捉えることはできる。ジャックの幻影ともとらえられるはずの彼ら(たとえば舞踏会のシーン)が決して幻影ではないということ、あるいは少なくともジャックにとっては幻影ではないということ。それは最初に、ジャックがゴールド・ルームで酒を飲んでるときにウェンディが入ってくると、そこはただのがらんとした部屋であるということからもわかる。ジャックの、ダニーの、そしてウェンディのそれぞれにとっての非現実的世界が存在し、それが物理的な存在でもあるということは、明らかだ。そのそれぞれにとって幻影ではない物理的存在であるという点が他のホラー映画とは違うところだ。ゴーストを扱うホラー映画はそのゴーストが全員にとって幻影でないことによって物語が成立するはずだ。それぞれにとってしか現実ではないゴーストは単なる妄想に過ぎず、恐ろしくなどない。この映画はそれぞれにとって現実でしかない(確実に現実であることは重要だけれど)にもかかわらず、そのゴーストが直接的な恐怖とならないことで、恐怖映画として成立しうることになる。その複雑な恐怖の想像の仕方がキューブリックオリジナルのものだ(原作の内容は忘れましたが、そんな内容ではなかった気がする)。
 そしてその幻影(幻影ではないのだけれど、便宜上そういっておきます)のある場所(あるいは時間)がどこなのか、それがこの映画の鍵になるのだと思う。ダニーはそもそもトニーという幻影があり、その時間は未来に設定されている。ジャックは過去だ、舞踏会の行われていた1920年代。ウェンディの場合はいつなのだろうか? そしてどこなのだろうか? それはこの映画からはわからない。映画でもっとも問題となるのはジャックの1920年代(具体的には1921年だか、1923年だか)という幻影。ここにキューブリックはこの映画のホラー映画を越えた部分をこめているはずだ。ちょっと難しくて読み取りきれませんでしたが、その時代を借りておそらく現代に対する何らかの批判的なメッセージを述べているのだと思います。そのヒントは前任の管理人が吐く「ニガー」という言葉、そしてディックの存在辺りでしょう。そして前任の管理人がジャックと会話しているシーンの最後に停止しているように見えること、そしてラスト。その辺りからなんとなく滲み出してくる「意味」を味わいつつ、根本的にはやはり恐怖映画であると思いました。

悪魔のいけにえ

The Texas Chainswa Massacre
1974年,アメリカ,84分
監督:トビー・フーパー
脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル
撮影:ダニエル・パール
音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー
出演:マリリン・バーンズ、ガンナー・ハンセン、エド・ニール

 墓から死体が掘り起こされるという事件が相次いだテキサスのある街。フランクリン兄妹とそのともだちは、祖父の墓の安全を確認しつつ、今は廃屋となっている昔住んだ家を訪れようと計画していた。途中、気の狂ったハイカーを乗せ、ガソリンスタンドではガソリンがないといわれ、それでもとりあえず家にたどり着いた…
 実際に起きた事件をもとに、ホラー映画界の伝説的な一本が生まれた。衝撃的な内容と演出はこれ以降のホラー映画に多大な影響を与えた。

 「ホラー映画なんて…」とか「ホラー映画は嫌い」という前に、この映画は見なくてはならない。もちろん怖い、神経に障る、非常にいらだたしい映画。しかし、それは同時にこの映画がすごいということでもある。観客の心理をそれだけ操作する映画。しかも、血飛沫が飛び散ったり、グロテスクなシーンがあったりするわけではない。人が殺されるシーンでも、切られるシーンでも、首が飛んだりすることはない。それにしてこの恐ろしさ。それは緻密に計算された画面の構成、音楽の利用の仕方。惨劇のシーンを直接見せるのではなく、そのシーンを直視したものを映すことによって、その衝撃を伝えるというやり方が、非常に効果的。
 最初の殺人シーンはでは、何かありそうでいながらも、彼らの心情に合わせるかのように淡々と日常を切り取っていく。しかし、最初の殺人、そしてその痙攣(死ぬ人が痙攣するというのは映画史上初だという話もある)の後、カメラも音楽もいかにもホラー映画という調子に変わっていく。そのあたりの転調も見事だし、その変わる部分のシークエンスが最高。ちょっとネタばれになりますが、最初の殺人が起きるシーンには全く音楽が使われておらず、しかもロングショットで起きるというアンチクライマックス。その不意をつく見せ方がすばらしい。
 そして、後半の叫び声。これはかなり神経に来る。これだけ徹底的にやるのは本当にすごいと思う。チェーンソーとか、ハンマーとか、即物的なものに恐怖があると思われがちだけれど、この映画で一番恐ろしいのはこの叫び声だと思う。見ているものの心をつかんで引っ掻き回すような叫び声。このシーンにもう映像はいらないのかもしれない。彼らが何をやっていても、ただひたすら続く叫び声でその恐ろしさがあらわされてしまう。だから彼らが何をやっていてもあまり関係ない。そしてその叫び声がやむ瞬間、映画は新たに展開し、その終わり方もまたすばらしい。なんともいえない終わり方というのでしょうか。すべてが終わったとはわかるけれど、どこかに残る後味の悪さ。という感じです。
 怖いです、とても怖いです。最後まで見られないかもしれません。しかし、それはこの映画が面白いということの証明でもあるのです。現在も映画監督たちはこの映画を見て、その魅力にとりつかれ、引用を繰り返す。それほどまでにすごい映画。なのです。

 逃げ出す瞬間に感じる美しさは、それまでの不安感が一因にある。単純なくらい画面から明るい画面への転換、夜明けの空の美しさだけに還元できない心理的な美しさ。脳に直接突き刺さるかのような叫び声がやんだ瞬間に無意識に生まれる安堵感が、その画を「美しい」と感じさせる一因になっていると思う。
 つまり、この美しさは映画の文脈を離れては味わうことのできない美しさであるということ。しかもその原因がすぐには意識に上ってこないというのも面白い。ただ「美しい」と感じたとき、その原因は画面の美しさにあると感じる。しかし、仮にそのカットだけを見せられたときにそれほどの美しさを感じるかといえば、そんなことは無いように思える。

吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

降霊

1999年,日本,97分
監督:黒沢清
原作:マーク・マクシェーン
脚本:黒沢清、大石哲也
撮影:柴主高秀
音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司、風吹ジュン、石田ひかり、きたろう、岸部一徳、哀川翔、大杉漣、草なぎ剛

 心理学の研究室の大学院生早坂は霊的な減少に興味を持ち、霊能力を持つという純子を実験に呼ぶ。しかし、教授は早坂の考えに理解を示すものの、実験には反対し、実験は中止となった。そんな純子の夫克彦は効果音を作成する技師で、ある日音を取りに富士山のふもとへ向かった。そこには誘拐された少女が犯人とともに来ていた…
 現代日本ホラーの代表的な監督の一人黒沢清が手がけたTV用のホラー映画。黒沢映画常連の役所広司を主演に起用し、質の高い物を作った。

 霊的なものを扱ったホラー映画の怖さはやはり、いつどこに出てくるかわからないというところ。それは、たとえば連続殺人犯も同じことで、ホラー映画の基本とも言える恐怖感。この映画はその怖さを非常にうまく出している。カメラがいったんパンして戻っていくと、誰もいなかったところに人影があったりする効果。その怖がらせ方がとてもうまい。
 それはホラー映画としては普通の部分だけれど、この映画に独特なのは、その霊がなぜ怖いのかよくわからないところ。よく考えてみると、普段語られる霊というのはあまり実害は及ぼさず、何が怖いのかといえば、その存在自体ということになる。この映画に登場するのもそんな存在自体に人々が恐れてしまうような霊。その具体的ではない恐怖の演出の仕方というのもうまい。そして存在自体が怖いということの、その怖さの下はどこにあるのかと考える。そう考えていくと…
 といっても、具体的な恐怖がないので、いわゆるホラー映画のような怖さではない。脇役で登場する豪華なキャストたちのキャラクターもあって、どこかおかしさもある怖さ。そのあたりのバランスの取り方もうまいです。

遊星からの物体X

The Thing
1982年,アメリカ,109分
監督:ジョン・カーペンター
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr
脚本:ビル・ランカスター
撮影:ディーン・カンディ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート、ドナルド・モファット

 南極のアメリカベースに突然現れたノルウェー隊のヘリコプター。彼等は執拗に一匹の犬を追っていた。狂気に犯されたようなノルウェー隊の二人の隊員は二人とも死んでしまう。それを不審に思ったアメリカ隊の隊員がノルウェーの基地に行ってみると、そこは全滅し、人々の死体と、奇妙な生物の焼死体が残されていた…
 サイコな要素を取り込んで、「エイリアン」とともにこれ以降のSFエイリアン・ホラーの原型となった名作。ホラーの巨匠ジョン・カーペンターの出世作でもある。

 この作品はもちろんエイリアンもののホラー映画ではあるが、同時に犯人探しのサスペンスの要素も持っている。見た目からはエイリアンが寄生しているかどうかわからないために生まれるサスペンスがこの作品の面白みを大いに増す。この構造はもちろん『エイリアン』と同じである。『エイリアン』の公開は1979年でこの作品より3年前だか、『エイリアン』の脚本家はもちろんジョン・カーペンターの盟友ダン・オバノンであり、このアイデアが昔から彼らの作品の構想の中にあったことは想像に難くない。だから、ふたつの作品が似ているのはいたしかたないのだろう。そして、それが現在に至るまでエイリアンもののサスペンス・ホラーのひとつの雛形となったのだ。
 そのような作品としてこの作品は非常に完成度が高い。外界との通交がまったく絶たれるという設定、その中でどこから迫ってくるかわからないエイリアン、仲間に対する疑心暗鬼、エイリアンの気色の悪さ、それをとっても抜群の出来。
 もちろん、この閉鎖空間という設定はジョン・カーペンターのお得意の設定であり、閉じられた中に恐怖の源があり、そこから逃れようと奮闘するというのも彼がずっと繰り返してきた物語展開である。

 しかし、その恐怖の源とはいったい何なのだろうか。果たしてそれは文字通りエイリアンなのか。ジョン・カーペンターがこのような恐怖を繰り返し描いていることからもわかるように、これは必ずしもエイリアンである必要はない。気の狂った殺人鬼でも、若者のギャング団でもなんでもいいが、とにかくそれはわけがわからないが“私”に襲い掛かってくるものでなければならないということだ。それらの映画とこの映画が違うのは、『ハロウィン』のブギーマンはそのものが恐怖の対象であるのに対して、この作品では人間がそのように恐怖の対象になるのは何かに取り憑かれたからだということだ。人間が何かに取りつかれることでわけのわからない恐怖の対象になる。それは非常に示唆的なことではないか。彼らは何かに取り付かれ、他の人間を食い物にし始めるのだ。
 それは別にエイリアンであろうと、狂気であろうと、欲望であろうと、何も変わらないのだ。つまりここでのエイリアンというのは人間か取り憑かれるなにものかの隠喩なのである。
 この物語の主人公であるはずのマクレディも「実はエイリアンなんじゃないか」と思わせる瞬間が映画の中に何度もあるのは、彼もまた何かに取り憑かれているからだ。彼はもちろんエイリアンを抹殺し、基地の外に出ないように奮闘してはいるけれど、果たして本当にそうだろうか。人間側が一枚岩ではないようにエイリアンも一枚岩ではないとしたら、エイリアン同士の殺し合いもあってもおかしくはないのではないか。実はマクレディは他のエイリアンを抹殺し、自分が地球に進出しようとたくらんでいるエイリアンなのかも知れないではないか。
 そのように考えてみると、この映画のラストはある意味ではハッピーエンドのように見えるけれど、非常にもやもやしていやな感じも残す。ジョン・カーペンターはこの作品の続編の構想があった(今もある)らしいのだが、それがどうなるのかはまったく予想がつかない。
 この作品に描かれたエイリアンは、われわれを果てしない不安に陥れる。

TATARI

House on Haunted Hill
1999年,アメリカ,92分
監督:ウィリアム・マローン
脚本:ディック・ビーブ
撮影:リック・ボッタ
音楽:ドン・デイビス
出演:ジェフリー・ラッシュ、ファムケ・ヤンセン、テイ・ディグス、アリ・ターラー、ブリジット・ウィルソン

 1931年、精神病の犯罪者を収容した病院の火事で、その病院のバナカット医師による人体実験の事実が判明した。それを扱ったテレビ番組をみた大富豪でテーマパークのプロデューサーであるスティーブン・プライス(ジェフリー・ラッシュ)の妻エブリン(ファムケ・ヤンセン)は、自分の誕生日パーティーの場所をその病院にしようと提案する。スティーブは数々の仕掛けを用意し、「一晩生き残ったら100万ドル差し上げます」というメッセージを送ったが、当日やってきたのは、招待した覚えのない人たちだった。

 流行のサイコスリラーなどではなく、純然としたホラー。とにかく怖い仕掛けを五月雨式に繰り出して、ジェットコースターのような勢いがある。リアルさにはかけるが、音響効果など恐怖感を与えるには充分の仕掛けがある。テーマパークに行くような気分でみれば、すっきりして帰れるかも。