ピストルオペラ

2001年,日本,112分
監督:鈴木清順
脚本:伊東和典
撮影:前田米造
音楽:こだま和文
出演:江角マキコ、山口小夜子、韓英恵、永瀬正敏、樹木希林、沢田研二、平幹二郎

 ライフルを構え、何者かを撃ち殺した男。その男が別の男に殺され、東京駅にぶら下がる、あやしげな笑みを浮かべながら死ぬ。撃った男は車に乗り込み、逃げてゆく。黒い着物に黒いブーツ、殺し屋ナンバー3通称野良猫は殺し屋のギルドの代理人小夜子から仕事を受ける。仕事はこなしたが、そこにナンバー4通称生活指導の先生が現れた。
 「殺しの烙印」を自らリメイクした鈴木清順は、全く違う作品に仕上げる。白黒世界とは全く違う鮮やかな色彩世界、男の世界とは違った女の物語。

 江角マキコは美しい。あの衣装もとても素敵。それに限らず色使いに関してはいうことなし。清順映画の色使いはやはりすごいです。初めから終わりまで画面の色使いを眺めているだけで「美」というものに対する並々ならぬ意識を感じずに入られない。
 と、美しさという点ではいうことはない。して、物語に行けば、
 どうしても「殺しの烙印」を意識しながら見てしまうのですが、基本的に全く違う作品。前作を意識して、あてはめをしながら見てしまうと作品自体を楽しめなくなってしまう。殺し屋のランキングがあるということ以外は共通点もあまりない全く別のお話として見なければいけないのでした。
 そんなことを考えながら話がまとまらないのは、映画もまとまらないから。清順映画を理解しようという試みはというの昔にあきらめていますが、この映画はその中でもかなり混迷の度合いが高い部類に入ると思います。物語というよりは個々の描写/表現が。特に撃ちあいのシーンなどは何がどうなっているのやらさっぱりわからない。それは映画としての表現もそうだし、関係性の描写もそう。画面やプロットを構成する各要素が一体どんな意味を持っているのか、あるいはどんな役割を果たしているのか、そのあたりがなかなか見えてこない。清順映画は何度も見ればそれが徐々に見えてくるという感じのものが多いので、これもまたそのひとつではあるのだろうけれど、困惑したまま映画館を出るというのはなかなかつらいものです。
 全く違う心構えで、もう一度見れば、また違うことを考えられるのではないかなと思います。「ツィゴイネルワイゼン」は見るたびに驚きを与えてくれる映画であり、それはわけのわからなかった部分が少しずつわかってくることや、それまでは気づかなかったカットや小道具に気がつくことの喜びがある映画だったわけです。果たしてこの映画はどれほどそれに近づけるのか、それはもう一度見てのお楽しみという気がします。

ツィゴイネルワイゼン

1980年,日本,145分
監督:鈴木清順
脚本:田中陽三
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:原田芳雄、大谷直子、藤田敏八、大楠道代、磨赤児

 汽車で旅をする男は列車で琵琶を持った盲目の三人組を見かける。鄙びた駅で降りたその男・青地は偶然そこで殺人の嫌疑をかけられているみすぼらしい格好の元同僚・中砂にであった。うまく中砂を救った青地は中砂とともに橋のたもとで列車で見かけた盲人の三人組を見かけた。二人は地元の料亭へとゆき、小稲という芸者と出会う…
 日活を追われた鈴木清順が復活を遂げた一作。清順らしい不条理な世界観と磨き抜かれた映像センスがすばらしい。

 鈴木清純らしい代表作といえば、「陽炎座」か「ツィゴイネルワイゼン」というイメージが付きまとうくらいの代表作ですが、初期のハチャメチャさとくらべるとかなり落ち着いているというか、洗練されている感じがする。
 一番凄さを感じたのは、終盤の大谷直子の登場シーン。たびたび青地のところを訪ねてくる小稲は常に薄暗いところに立つ。上半身は明るく、足下は暗くて見えない。しかし、ライティングを感じさせないその明るさのグラデーションが凄まじい。これは照明技師(大西美津雄)の技量によるところが大きいだろうけれど、それを撮らせてしまう清順のセンスもやはり凄い。
 そんな映像の凄さに圧倒され続け、あまりプロットにかまけることができないくらい。しかし、物語の核のなさというのも、個人的には非常に好きな点で、その点、この映画もいろいろなエピソードが絡みあいそうで絡み合わないまま、なぞを残しつつ進んでいくところが中々。
 この映画はおそらく一度見ただけで語るのは失礼なくらい凄い映画だと思うので、あまり語らず、また見に行きたいと思います。

けんかえれじい

1966年,日本,122分
監督:鈴木清順
原作:鈴木隆
脚本:新藤兼人
撮影:萩原憲治
音楽:山本丈晴
出演:高橋英樹、浅野順子、川津裕介

 高校生の麒六は下宿する家の娘道子に思いを寄せる。しかし、カトリックの家でもあり、思いを伝えることのできない麒六はそのエネルギーを喧嘩に向ける。果たして麒六の運命や…
 鈴木清順の代表作のひとつに数えられるこの作品。モノクロの画面に登場人物たちがよく映える。

 この映画は確かに面白い。ドラマとして面白い。喧嘩に明け暮れる番カラ男とマドンナが出てくるわかりやすい青春映画というところ。その番カラ男がキリスト教に縛られているというのも一つひねりを加えてあって面白い。
 という非常に雄弁な物語に映像の美しさが加わって、有名な桜のシーンなどは確かに色を感じさせるモノクロの映像となっているわけです。
 しかし、何かが物足りない。それは多分、これが日活映画らしい日活映画だからかもしれない。高橋英樹というスターを主役に配し、そのスターをヒーローとして描く作品。それを清順は崩そう崩そうとして入るけれど、崩しきれなかったという感じ。そう、その崩そうという努力は感じられるのだけれど、やはりスターの看板を崩すわけにはいかず、ちょっとずれた部分の面白み(有名なピアノのシーンとか)や映像的な工夫(パチンコだまのシーンとか)といった形で表現するほかなかったという不満。
 これはやはり日活という映画会社が60年代石原裕次郎をはじめとするスター映画を大量に世に送り出していた映画会社だったからなのでしょう。決して監督中心ではない映画。だから清順のやりたいことを完全にはできなかった。そんな不満が垣間見えてしまうような作品でした。

河内カルメン

1966年,日本,89分
監督:鈴木清順
原作:今東光
脚本:三木克巳
撮影:峰重義
音楽:小杉太一郎
出演:野川由美子、伊藤るり子、和田浩治、川地民夫、松尾嘉代

 河内の山間の村に住む娘は病弱な父をよそ目に坊主の愛人になる母親に反感を抱きながら日々暮らしていた。そんな彼女は村に嫌気が差し、大阪に出て行くことに決めていた。
 清順が女を武器にしてのし上がっていく女を描いた。映画的にはかなり斬新な手法がつかわれ、清順的世界観を発揮。

 この映画は結構狂っていていい。「すべてが狂っている」ほどに驚愕するものではないけれど、「ふふ」とほくそえみたくなるような作り方。特に終盤はその傾向が強く、ひひじじいが映画を撮影するというときに照明とか、それが終わった後のマンションでのシーンとか、相当めちゃくちゃなことをやりながら、それを清順らしさという言葉で片付けてしまえるような味を出す。
 これがまさに清順的世界という感じなのでしょうね。ぎこちなさと狂気の描き出す美というところでしょうか。
 あとは、展開の速さがかなりいい。清順の映画はそれほど速いという印象はなかったんですが、この映画は相当速い。あっという間に物語が進んでいく。というより過ぎ去っていく。どんどん勝手に転がっていく展開の仕方は60年代らしさなのか、3時間分の物語を90分に無理やり収めたような印象がある映画がおおく、それがまた快感。

散弾銃の男

1961年,日本,84分
監督:鈴木清順
脚本:松浦健郎、石井喜一
撮影:峰重義
音楽:池田正義
出演:二谷英明、南田洋子、小高雄二、芦川いずみ

 山道を走るバス、乗り合わせた若い娘にお酌をさせようとする中年男に散弾銃を突きつけてそれをやめさせた男。男は散弾銃を担ぎ、通りがかりの村人に止められながらもあまり人が行かないという山に入っていく。実はその山はバスに乗り合わせた中年男が製材所を経営している山だった。
 清順映画常連の二谷英明の主演作。場所は日本の山奥だが、いわゆる西部劇。

 これは西部劇なのですね。場所は山、銃は猟銃ではあるけれど、女がいて、バーがあり、決闘がある。分かりやすい悪役と分かりやすいヒーローと分かりにくい悪役がいる。
 ということを加味しつつ考えると、かなり不思議な映画ではあり、パッと見退屈な映画であるようなんだけれど、いろいろと味わい深いという感じ。物語的にも、「なるほどね」「やっぱりね」という展開で、驚きはしないけれど関心はする。つまり全体としてみると崩れず均整を保った映画。細部に入っていけばもちろん不思議な魅力にあふれてはいるのだけれど。
 西部劇ということで基本的に人間の描き方は画一化されているところが清順らしいくずしを拒んだ一つの原因であるのかもしれないと思いながらも、端的な色彩や音楽や映像に清順らしさが垣間見える。たとえば、バーに並べられたビールジョッキの不均一さとか、山奥の酒場には似つかわしくない彩りの構成とか、そういったものです。保とうとする均衡とそれを崩そうとする力とが拮抗する点が清順映画の焦点だと私は思いますが、この映画は少し均衡がわに寄った映画なのではと。私はどちらかというとくずれた側に寄った映画のほうが好き。あるいは狂気の側に。

裸女と拳銃

1957年,日本,88分
監督:鈴木清太郎
原作:鷲尾三郎
脚本:田辺朝巳
撮影:松橋梅夫
音楽:原六朗
出演:水島道太郎、白木マリ、南寿美子、二谷英明、芦田伸介、宍戸錠

 繁華街のキャバレーで、雲隠れした麻薬密売組織のボスらしき人物を見かけた新聞記者とカメラマンの健作。その男は見失ってしまうが、その夜健作はそのキャバレーの踊り子を助け、その踊り子の家にいくことになった。しかし、そこで想像もしていなかった事件がおきる…
 まだ若かりし清順が撮ったサスペンス。ハリウッドのフィルム・ノワールのような雰囲気で展開力のあるドラマという感じ。

 清順にしては素直な映画といっていいのか、主にプロットのほうに趣向が凝らされていて、衝撃的な映像とか、シーンとかがあまりない。しかし、50年代の話としてはかなり現代的な感じがする。
 なんとなく007を連想してしまった理由はよくわからないけれど、なぜか清順の映画の主人公はみなもてる。この映画のさえない顔した水島道太郎でさえもてる。それから小道具がさえてる。この映画はカメラマンということで、いろんなカメラを使ってみる。しかし、あの拳銃型のようなカメラはどうかと。あんなもんつかったら普通は殺されるがな。
 という映画ですが、やはりちょっと映像にこだわってみると、この映画でのポイントはアングルかな。ボーっと見てると、なんとなく過ぎていく映像ですが、なんとなく全体にいいアングルだったという印象がある。清順はクレーンとかをよく使うし、この映画でもクレーンの場面があったっと思いますが、なかったかな… まあ、いいです。 それよりも、この映画のポイントはローアングル。ローアングルといえば、小津安二郎と加藤泰の専売特許のように言われますが、清順のローアングルもなかなかのもの。ローアングルというよりは、至近距離で人を下から撮るという感じ。たとえば座っている人の視線で立っている人を撮るとか、そういうことです。
 そういうアングルで映された人の表情が非常に印象的だったので、こんなことを書いてみましたが、まったくまとまる様子もなく、今日はこのままふらふらと終わります。

すべてが狂ってる

1960年,日本,72分
監督:鈴木清順
原作:一条明
脚本:星川清司
撮影:萩原泉
音楽:三保敬太郎、前田憲男
出演:川地民夫、禰津良子、奈良岡朋子、芦田伸介、吉永小百合

 街でちょっと悪い遊びをし、バーにたむろするハイティーンの若者達、そんな若者達のひとり次郎は母に限りない愛情を持っていたが、日ごろから反感を持っていた母の情夫である南原が理由で家を飛び出してしまう。
 物語としては特別どうということはなく、物語の前半60分は清順らしいと関心はするものの感動というほどではないけれど、最後の10分は息が止まるほど素晴らしい。
 まだまだ新人の吉永小百合もちょい役で出演。

 情夫がどうとか、若者がどうとか、戦後がどうとか、そういった安っぽいメディアにいたるまでありとあらゆるところで語られてきた問題を、あえて取り上げているのだけれど、この映画の本質はそんなところにはない。
 冒頭近くの交差点のシーン、カメラは平然と幹線道路のトラフィックの中に平然ととどまる二人の女を平然と俯瞰からとらえる。その画があまりに平然としていることに戸惑う。日常的ではあるけれど、映画では実現しにくいようなシーンがさりげなくちりばめられる。
 最後の10分になると、そのようなシーンも勢いを増し、それにもまして美しい構図と力強いカメラワークが引き立つ。その最後の10分間の始まりは、敏美がオープンカーの後部座席にうつ伏せで乗り込むシーンだろう。その非日常的な、しかし美しい構図にはっとし、そこから先は目くるめく世界。
 ホテルの一連のシーンはまさに圧巻。見てない人はぜひ見て欲しい。この1シーンに1500円の料金を払ったって惜しくはない。そのくらいのシーンでした。多くは語るまい。アップのものすごい切り返しと、足によって切り取られた三角形と、緊迫したシーンに突如入り込んでくる笑いの要素。見た人はそれですべてが分かるはず。

陽炎座

1981年,日本,139分
監督:鈴木清順
原作:泉鏡花
脚本:田中陽造
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:松田優作、大楠道代、加賀まり子、楠田枝里子、磨赤児

 劇作家の松崎は一人の女と不思議な出会いをする。そのことをパトロンの玉脇に話すが、実はそれは玉脇の妻だった。玉脇には二人の妻がおり、一人目の妻は実はドイツ人なのに、日本人の格好をさせているという。
 ストーリーを説明しようにも、なんだかわけのわからない清順ワールド。しかし、小気味よいカットの切り方や、フレームの美しさについつい見入ってしまう。出ている役者も超個性的で、妙に味がある不思議な味わいの作品。

 昨日の『巨人と玩具』とはうって変わって映画の流れは非常に緩やかな映画。しかし、部分部分を取ってみると、妙なスピード感がある。とくに、異常に短いカットのつなぎや、異常に速いズームアウトが目に付く。普通、人の顔の切り返しというのは会話のときに、それぞれのセリフをアップで撮るために使うのだけれど、この映画ではセリフがないのにやたらと切り返す場面がある。しかも、ワンカットは1秒にも満たない短さ。なんだかわけのわからないおかしさ。
 異常に速いズームアウトというのはかなり目に付くが、しかもそれが微妙にぶれる。これまた不思議な感じ。しかも、不気味な不思議さではなく、なんとなくおかしい不思議さ。全体としては非常にまじめに映画が作られているのだけれど、部分を見ると妙におかしい。わけがわからない。しょっぱなから出てくる人たちが誰なのかまったくわからないし、「病院」と言われているところはちっとも病院に見えないし、誰も人もいないし、しかも妙にきれいで作りたてのセットであることがばればれ(反小津)。
 何の事やらさっぱりわからん。何で品子は心中するのにたらいに乗ってんじゃ?とかね。「狂気」というてんで増村との共通項を見出しました(別に見出さなくてもいいんですが…)。あと共通するのは場面転換の早さかな。
 鈴木清順ってのは本当に不思議な監督だ。発想がとっぴなところがちょっとレオス・カラックスに似てるかも。などとこちらもわけのわからないことを考え始めてしまいました。